山寺の笑い

 いよいよ秋も深まってきた。今年の夏は酷暑だったので、もみじの葉が紅葉せずにちぢれて茶色になっているものが多い。もみじの熱中症というところだろうか。それでも川に突き出した枝は綺麗に紅葉していたりする。やはり寒暖の差があるほうが紅葉には良いようである。

 山寺にはテレビが無い。
 というわけで妻の実家などに行くと食い入るようにテレビに夢中になり笑われたりする。

 テレビ番組を見ていて思うのはお笑いとよばれるジャンルの人達が異常に多いことである。歌手や俳優達も笑いを取ることを半ば強制されている感がある。

 寄席について書いた本などを読むと昔から寄席には色物的な直ぐ分かる笑いがある反面、じっくりと噺を聞かせるような芸人も大勢いてとても幅が広かったようである。

 最近のテレビはよく言えば分かりやすい、悪く言えば底の浅い笑いが圧倒的に席巻しているように思う。デフレスパイラルという言葉があるが、質の悪いテレビ番組が視聴者の質を下げ、質の落ちた視聴者にさらに迎合してテレビ番組の質を下げている気がする。ちょっと寒い感じである。

 先日、本山では筑波大名誉教授の村上和雄氏を招いて講演を行うというので私も出席した。
心をかえると遺伝子が変化するというお話で、仏教とも大いに関係ある話である。分かりやすく面白いお話で時間の経つのを忘れた。「科学は知的なエンターテイメント」という表現が耳に残った。テレビでは<知的な笑い>というものに殆どお目に掛かることが無い。


 実は一般の方にお話する時に実はどうして笑いをとるかというのがいつも考えることである。落語なんかもよく聴くが落語的な笑いを法話にいれるのはなかなか難しい。ジョークや笑い話などを読んで、適当に織り交ぜて話をする。法話アメリカンジョークみたいなのも似合わないしなかなか難しい。


 やや話がそれるが最近気にいっている<知的な笑い>を2題

 ひろさちや氏がインドに行かれた時のことである。(正確な内容は手元に資料がないので細部はいいかげんであることをご了解の上お読み願いたい)

 インド人の通訳の男性があるときひろさちや氏に「私達はいつブッタになれるのでしょう?」と尋ねた。ひろさちや氏がどう答えたものか戸惑っていると、通訳の男性は「私は毎朝ブッタになります」と言った。ひろ氏はその言葉の意味が分からなかったが、帰りの飛行機のなかでふと思いついた。ブッタとは「覚者」のことであるが、本来は「(真理に)眼覚めた者」という意味であり、通訳氏は自分が朝目覚めることを指してブッタと表現したのだった…

とても爽やかで、それでいて知的な笑いではないだろうか…

次に私の気に入っている哲学的なジョークを一題。

哲学科の教授の質問
「結果が原因に先立つものを挙げてみたまえ」
手を上げた学生の答え
「母に押される乳母車です」


 以前、何かの記事で読んだのだがそこには「笑いは脳をリセットする」と書かれてあった。
 細部は全く思い出せないのだが、私の拙い話を聞いて笑って下さるお参りの方とお話していて実感として感じることである。

 私達はふだんいろんなことで頭が一杯である。
 その一杯の心へ向けて話をするには、やはり一旦、心をリセットしてもらう必要がある。
 そのために笑いはとても大きな力があるように思う。というわけでお笑いのDVDやCDを視聴することが私の大切な仕事になっている…