落ち葉の季節と肩こり
いよいよ落ち葉掃く季節になった。あたり一面どこを見渡しても落ち葉である…
今日は私と母と妹の三人で落ち葉掃きである。
我が家の司令塔はしっかり者の妹である。
「今日はこことここやりますから」
と指令が飛ぶ。仕切るというのはひとつの才能であり能力であると思う。
もちろんその能力がないのに仕切りたがる困った人もいるが、人を動かし、物事をてきぱきと片付ける能力のある人物はやはり居るものである。妹(次女)は私の知っているなかではベスト3くらいに入っている。そうした能力のない人間(例えば私)はその指示に従って動いたほうが物事は捗るというものである。
結局私は申し渡されたノルマを達成するのに5時半までかかった。日の暮れるのが早くなり、最後には落ち葉と石ころの区別もつかなくなってきた。でも最近、運動不足なので結構楽しかった。
日の暮れ、両側にもみじの並んだ参道を箒と熊手を担いで帰った。
薄暗い空に、もみじの枝が黒々とした影のように見える。上を見上げながら歩いていると、一箇所だけ真っ黒な塊が見えた。よく眼を凝らすと大きな鳥の巣だった。明日になったゆっくり確かめようと思った。ちょっとした楽しみである。
妹は強度の肩凝りである。
何事もきちんとしないと気が済まず。根を詰めるタイプである。
多分、こういうタイプの人間に身体の凝る人は多いと思う。
もちろん身体が凝らないという人は少ないし、凝らないといっている少数派の人の中には実は凝りに気付いていないだけの人もいると思う。肩が凝らないという友人の肩を揉んでいたら、初めて自分に凝りがあることに驚かれた経験がある。
まだ確証はないが外国人には肩こりの症状が殆ど無いという。もっとも実際に凝らないのか凝っているのを自覚していないのか不明である。また、日本に長く滞在する外国人は肩凝りの症状を訴えるという話も聞いたことがある。なかなか面白い。
(対人的に)気を使うと身体が凝るというのは事実のようである。
特に日本人は相手に気を使うというのが一種の文化的習性といっていい。
凝りというのはかなり奥の深い問題だと思うが、あまり考えずに書き始めてしまった(笑)
凝りの要因は沢山あると思うが、今回はひとつだけ大きな問題を書いてきたい。
「自分の腕の範囲を示しなさい」と聞かれたら、大半の人はいわゆる肩口から手首までを指すのではないだろうか。しかし、解剖的に見ると、腕は肩甲骨の上にくっついていて、その肩甲骨は体幹の上をかなり広い範囲でスライドするようにできている。
人形の腕は肩にベアリングがあって回るようになっているものがあるが、多くの人間の腕という意識はこれに近いのではないだろうか。本来、構造として持っている体のパーツをずっと狭めて意識しているという現象は広く見られる。
首は7個の頚椎で構成されているが、真裏から見ると、頚椎の一番上は鼻の奥近くに位置している。自分の首をそんなに長く意識している人は殆どいないだろう。
これもやはり実態と意識のズレが見られる例である。
これに加えてもうひとつの問題がある。
こうして狭められた意識としてのパーツをどう使うかという問題である。
これもいろいろ問題があって単純には書けないのだが、一般に私達は身体を使う時に緊張しなくてもいい筋肉を緊張させて動かしているという実態がよく見られる。身体のパーツの使い方の間違いである。
<身体のパーツの意識のしかたの間違い>×<身体のパーツの間違った使い方>
この掛け算が凝りの大きな原因のひとつであると思う。
ここにもうひとつ加えられるとしたら<心の緊張>である。
それはまじめさであったり対人的な意識のゆがみであったりするが、緊張感は身体の筋肉に凝りを生 む大きな原因のひとつであることは間違いない。
これについては書きたいことは一杯あるのだが今日はこれくらいにしておこう。
あまり根を詰めないのが肩の凝らないコツである(笑)