乗り遅れた男

兼務している山寺に掃除にでかけた。ここには今、妹夫婦が住んでいる。

妹夫婦は大坂の市街に住んでいたのだが、都会暮らしに見切りをつけて故郷に帰ってきた。子供も小さいし、仕事も探さなくてはならないので大変である。

親は何かと大変だが子供たちは田舎暮らしを満喫している。

私が行くと、6歳の甥が自転車に乗って駐車場に迎えに出てきた。彼は以前、少し神経質な所があったが、最近はすっかり逞しくなった。何より自転車に乗れることに驚きである。
ちなみに私が始めて自転車に乗ったのは中学1年の時である(笑)

私は小心者の癖に、人ができることを自分ができなくても、他人に遅れをとることにも余り躊躇がない。私の人生最大の欠点のひとつは自分が嫌なことや関心の無いことを先延ばしにすることである。かなり徹底的に。

不思議なことに自転車に乗れないからといっていじめられた記憶が無い。親からもあまりそのことを言われた記憶がない。親も周囲ものんびりしていたのだろうか。それも田舎暮らしの良いところかもしれない。

最近つくづく思うのは子供の頃の性格は殆ど一生変わらないということである。
大学受験に失敗して浪人したら、浪人生活も5年間続いた。実務優秀型の妹に言わせると私は人生を乗り遅れるタイプだそうである。

確か浪人3年目の春、共通一次試験(現在の共通テスト)で足切りされ、どこも受験できなかった。これはさすがに辛かった。昼ごはんを食べている時にふと「涙と共にパンを食べた者でなければ人生の味は分からない」というゲーテの格言を思い出し、ぽろぽろと涙がこぼれた。

人と自分が違うこと、人に簡単にできることが自分にできないこと、孤独だったこと、などなどで世を恨んだり、屈折したこともあったが、最近になってようやくそうした体験が自分の人生を深めてくれたという実感を持てるようになった。

私は仏教を学び、伝えていくことが大きな仕事だと思っているが、ひとつの方向は<深さ>という感覚であると思う。
<深さ>=<暗さ>ではないし、人生の持つ明るい部分を否定するものではない。深いがゆえに明るいというのもありだと思っている。

もちろん、社会全体から見れば、人生を真っ直ぐ渡るような人もいなくては困る。
ただ今の日本の社会は乗り遅れたものに決して暖かくはない。

乗り遅れた経験を持つものとして生きることにはいろんな在り方があること、また成功や不成功といった表面的なことの奥にもっといろんな価値観や人生観のあることを伝えていきたいと思っている。