妖怪ぬりかべの恐怖

 仕事を定年退職されたKさんはいつも気軽にお寺を手伝って下さる有り難い助っ人である。

 Kさんの奥さんも母と共通の趣味があり仲が良い。息子さんも私と小中高を通じて同じ学校だった。縁のある人というべきかもしれない。

 Kさんの息子さんというのがバスケットのレギュラーで、空手を習い、さらにギターも弾けるというのでモテモテだった。一方、私はといえば、図書委員で卓球部、坊主の息子とモテない道まっしぐらの思春期だった(笑)

 Kさんと住職は狭い炭釜に入って炭焼きの作業していたら二人とも太ももが筋肉痛になったという。

 住職は年齢の割りのは元気なのだが、同じ姿勢をとり続けると翌日に痛みや凝りがでるようになった。私も炭窯に入って働いたのだが、その日に入念にストレッチしたおかげで筋肉痛は免れたようだった。

 私達の体というのはとにかく硬くなるという宿命というか方向性をもともと持っているのではないかという気がする。長時間の同じ姿勢、無理な運動、間違った身体の使い方、もちろん老化もこれに拍車をかける。

 ある日、テレビ番組で年配の芸能人が歌っていて、歌自体は大変に良かったのだが、その芸能人が軽く踊り始めた姿を見たとき、かなりショックだった。どういったらいいのか手足以外の胴体の部分がまるでひとつの箱みたいな感じなのである。

 四肢というのは<体の中から生えている>ように動くのが望ましいと私は思うのだが、箱のような胴体の表面にちょこんと短い手足がくっ付いている気がした。

 その印象を説明しようとして、ふと思いついたのが水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくるぬりかべという妖怪である。

 生活が便利になった半面、圧倒的に身体を動かすという機会が減っている。
ところがテレビの健康番組で見た簡単な体操をやって「身体を動かした」と思っている人も多いのではないだろうか。


 お寺にいると掃除でも農事でも嫌でも身体を動かすことになるが、身体を健康に維持するためにはとにかくある程度の運動量をこなす必要があるのである。


 ある程度の運動量を供なった運動を<ベーシックな運動>とすると、それだけでは不十分なのである。それを土台として別のタイプの運動が必要になってくるのである。

 <ぬりかべ化>というのは身体の望ましくない変化のひとつだが、身体が望ましくない方向に変化するのを押し戻すにはヨーガ、気功、ストレッチなど<ベーシックな運動>とは別次元の運動が必要なのである。<身体を調整する運動>である。ここでは量よりその質が問われる。運動量より運動質である。

 太極拳、ヨーガ、気功などをやっている人によく見かけるのは<ベーシックな運動>は必要無いと思っている人達である。これらの運動が生まれた時代というのは生活のなかにいやでも<ベーシックな運動>が組み込まれていたのだということを忘れているのである。

 私達よりひとつ上の世代までは小学校まで5キロ、10キロと歩いて通うのは当たり前だったのである。ところがいまや空港などに行くと「動く回廊」なるものが出来て人間がベルトコンベヤーの上の荷物のように運ばれていくのである…

 確かに文明によって肉体を酷使することは減ったといえる。しかし文明が身体に楽させることを追及した先には大きな落とし穴があるのではないだろうか…

 健康になるためには運動量と運動質の二本柱が大切というのがひとつの結論である。
 ここから先はまたの機会にしよう…