我に同じ

   昨日の昼は景色が真っ白に見えるような雪だったが、今日はほぼ快晴。

 時々、屋根に積もった雪がひとかかえもある大きな塊となって落ちる音が聞こえる。古い雪は凍っているのでガサッとかドサッとかいう重い音である。これは私にとって春を告げる音のひとつである。


 随分前から、家の周りに一羽の鳥が居ついて離れない。
 
 常に家の周りを飛んだり、庭木に止まったりしている。玄関のセンサーが作動して見に行くと大抵、この鳥が玄関近くにいる。
 この鳥は鳴く時にお辞儀をするように体を前に倒す。その仕草が面白い。色は言葉に出来ない不思議な色だが、よく見ると綺麗である。

 家族もこの鳥が気になるようである。
 数年前、お寺に毎日のように手伝いに来て下さっていた懇意な檀家さんが突然亡くなった。
 Kさんという女性の方で、まだ若いといっていい年齢だった。私達にとって本当に哀しい出来事だった。住職はこの鳥はその方の生まれ変わりではないか、と言うことがある。もちろん、本気では言っていないのだが、そういう時の住職の言葉の端にKさんへの思いが見える気がする。


 輪廻転生という考え方は、眼の前の生き物ももしかしたら亡くなった自分の知り合いの生まれ変わりかもしれないという感慨を抱かせるものであることに気付いた。

 多分、昔の日本人はそういった感慨を抱いて生きていたに違いない。


 日本人は自分の生命と他の生命との垣根が低いような気がする。
 極端な例を挙げれば、工場でロボットに愛称をつけて可愛がるかのように世話をしたりすることがあるが、そういったこともこうした日本人の生命観と関係あるのかもしれない。
 「鉄腕アトム」とか「ドラえもん」とか人間を助けてくれる善意のロボットという発想はとても日本人らしい。そして子供の頃、これらの作品に親しんだ人たちの手によって日本のロボット研究は世界でもトップレベルのものになった。面白いことだと思う。

 生きている人間も亡くなった人間も、鳥も虫も草も木もロボットも、ひとつにつながっている…そんな感覚が日本人の中に眠っているのかもしれない。


峰の色 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の声と姿と  (道元禅師)