花粉症、ダイハード4.0、デスノート

今朝は妻の花粉症のくしゃみで眼を覚ました。

川端康成の「雪国」に女性が帯を解く音で眼を覚ましたという色っぽい、素敵な表現があるが大違いである(笑)

暫く前に杉の植林の中に入ったら、顔の前にソフトボールよりふたまわりくらい大きな黄色い塊があった。それはよくみると小指の先ほどの黄色い塊の集まりなのだが、どうやらスギ花粉の親玉のようだった。私が花粉症だったら卒倒していたかもしれない…

私の修行した本山は京都市内にあったが、広大な敷地には森のように樹木が茂っていて、春になると、本堂の周りにある回廊に黄色いチョークのような花粉がうっすらと積もった。
掃除は私達修行僧の仕事なので、その花粉の積もった廊下を雑巾がけしないといけない。
同期生の中に花粉症の者が居て本当に大変そうだったのを思い出す



昨日は妻とレンタルショップ「KUNI太郎」で借りてきた「ダイ・ハード4.0」を観た。
ウチはテレビが無いのでレンタルショップのDVDとYouTubeは欠かせない。



やはり、面白さを追求するという点でハリウッド映画というのは群を抜いている。
この映画ではハッカーのオタク青年が重要な役割を果たす。日本の風景にジョン・マクレーンのようなヒーローは似合わないが、このオタク青年は多分、日本人が演じても違和感が無い。

コンピューター文化とオタク文化の2つは日本とアメリカの文化の違いを超えはじめている。そして多分、この二つはどこかでつながっている。

コンピューターの普及で「リセット」とか「バージョンアップ」という言葉が日常化した。
仏教を学ぶというのは「心をバージョンアップ」すると表現すれば分かりやすいかもしれない。

心と体をソフトとハードの関係に例えるのも面白い

最近、何回か心と体の関係について書いたが,それはソフトがハードに影響を与え、ハードがソフトに影響を与えるということである。しかも、それが、ドミノ倒しのように連鎖していく。(私が子供の頃は花粉症は存在しなかった。それは鼻炎など他の病気として片付けられていたからなのか?それとも日本人の体が変わり始めているのか?興味深い…)


ジャンプに連載されていた「デスノート」がずっと気になっている。
同じ作者の「ヒカルの碁」も好きで、マンガとして完成度は高いと思うのだが何か引っかかる。

主人公はノートに名前を書くだけで相手を殺すことができる。
そしてきわめてクールに邪魔になる人間を抹殺していく。そこに「殺人」という言葉の持つ生々しさはない
デスノート」を読み返していて、それがパソコンでファイルを削除する感覚に酷似していることに気付いた。

パソコンの持つ性能やネットワークは進化し続け、私達はその恩恵なしには生きてはいけなくなっている。
その一方でパソコンの能力と自分の能力の境目のなくなる感覚が生じているとしたら私達はそのことに注意すべきだと思う。(これもパソコンというハードと心というソフトの関係である)

具体的には、自分がとても偉く見える。他人がバカに見える。家族を含めて自分以外の人間に無関心である…そういった心のあり方はパソコンの普及とも無関係ではなさそうなのである。


 そんな時代にどのように仏教を学び、また仏教を広めていけばいいのかというのが大きな課題だと感じている。