光源氏の恋文

    【山寺の本棚】

 母は長くお茶を習っているのだが、昨日はささやかなお茶会が庫裏で開かれた。
 門外漢の私に分からないが、洗い物を手伝うか、料理やお菓子のお下がりを頂くくらいしか、することがない…

 生の蕗の葉や土筆を砂糖菓子に仕立てたもの、淡い紅白の干菓子、春らしい黄緑色のきんとん、薯預まんじゅうに淡い緑を刷き、土筆の形に焼き目を入れたもの…見ているだけで楽しい。

 玄関を入ってすぐの部屋に淡い紅色の椿が活けてあって。光源氏という名前だと聞いた。

 今年は源氏物語の千年紀である。
 私にとって江戸時代と並んで関心のあるのが平安時代である。とにかくこの時代は面白い。

 数日前に蔵書を整理していて

 
 「源氏の恋文」尾崎左永子(文春文庫)

 
 を見つけた。

 意外に知られていないことだが、源氏物語の作者の紫式部が生きたのは作中に書かれている時代設定より100年をほど後だということである。
 現代の作家が明治時代を題材に小説を書くようなものである。
 その意味で作者の中に失われた過去を美化するという意識が存在したかもしれない(当時の平均的な寿命を考えれば今の私達が江戸時代について書くくらいの感覚かもしれない)

「源氏の恋文」にこんな一節がある

 
 手紙は当然、男にとっても女にとっても、教養と才知を推測する手だてとなります。そのために、あらゆる文化の粋がここにこめられました。たとえば紙の選び方からはじまって、その紙の色合い、たきしめた香り、墨つき、和歌の巧拙、そして包み文や結び文など外装の形式から、文に添える折り枝の趣向、返事のはやさの緩急にいたるまで、水ももらさぬ美意識の砦がはりめぐらされ、緊張とスリルに満ちた恋のかけひきが行われるのでした。

 
 今日の文化の中心であるテレビを見ていても、そこに繊細な美意識を感じることは殆ど無い。

 テレビには明るさや平明さはあっても、陰影、情緒、含蓄、教養といったものから随分離れつつある。かといってこれらを大上段に振りかざす一群の人達を見ているとやはり、何かが違う気がするのも事実である。

 お寺というのは常に伝統的なものが身近にあるが、それが尊くおもえることもあれば、逆に重圧になることもある。
 また伝統というものに守られているが故に、大切なものを忘れてしまっているのではないかと気付くこともある。(昨日ブログに書いた上田紀行氏の「がんばれ仏教!」に書かれていることは、正に伝統に守られるが故に仏教の陥っている無反省が痛烈に批判されている)

 そして伝統というものが貴重な美意識を脈々と伝えてきたことも事実である。
 平安時代の文化は日本人が到達した最高の美意識の粋であることには間違いない。
 今日は午後から雨なので「源氏の恋文」をゆっくり読むことにした。