まだ文も見ず…

【本日、HPを更新しました。宜しければ御笑覧下さいませ
           http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/
 
 先日、大江山のことを書いたので気になって少し調べていた。
 
  大江山いく野の道のとほければまだふみもみず天の橋立

 この歌には大江山、生野、天橋立という地名が読み込まれているが、大江山というのは現在の大江町ではなく、京都市街の近郊にある老いの坂トンネルの辺りとする説も有力とのことである。


 歌合せに出ることになったこの歌の作者の小式部内侍に対し、藤原定頼が母親の泉式部に使いを出して、歌の代作をお願いしましたか?返事が来ないとさぞ心細いでしょう…みたいな事を言ってからかったら、即座にこの歌を返したという。定頼も歌の名手だったそうだが、返歌も返せず逃げ出したという。

 中世では歌集が編まれる際も、身分が高いからといって採用されるのではなく、あくまで歌の優劣が問われているし、この小式部のように知性と機知で男をやりこめる女性が存在していたのをみると、この時代の女性が一面ではとても自由で、知的に洗練されていたと思わずにいられない。
 確か枕草子だったと思うが清少納言が歌をど忘れしたら、近くの身分の低い女性がさっと答える場面がある。膨大な歌を暗誦しているのは基本的な教養として当たり前だったらしい。
 こういうのは時代を越えてやはりかっこいいと思わずにはいられない。


 古典というと難しいし、面倒くさい、などなどの印象があるが、大人になってから読むと面白いと思うものも少なくない。
 その意味では古典の教育の仕方におおいに問題があるだろう。

 古典を研究や教育に携わる人の中には、頭がコチコチに固いと形容したいような人、マジメな人が多くいる。
 古典の原作者の多くは強大な権力と財力を手に入れ、余裕と自信と遊び心に溢れた人達だった場合が多い。一方、古典を研究したり、教えたりする人というのは得てして、とにかくマジメで、あまり権力やお金には縁のなさそうな人が多い…というと言いすぎだが(笑)<言葉の遊び>や<言葉の裏の意味>を駆使することには向いていないのでは?と思いたくなることが時々あるのだ。
 
 そういう意味では古典の面白さというのは自分で見つけ出す必要があるのかもしれない。

【追記】
この歌のことを調べていて、水垣久さんという方の和歌を中心とした素晴らしいサイトを見つけた。是非、ご参照頂きたい。知性と遊び心に溢れたサイトである。

  やまとうた http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/index.html