鬼になった男

最近は多くの小学校で放課後の校庭が解放されて子供達が自由に遊ぶことができる。

 私が小学校で警備員のアルバイトをしていた時、不審者が各地に出没し始めた時期だったので、その対策として放課後はできるだけ子供と一緒に遊んで欲しいという要請を学校から受けた。

 私が2年ほど勤務した小学校は、東京の下町にあったが、子供達はとても元気がよかった。
 小学生と一口で言うが、私の見る限り、1,2年生はまだ幼児の感覚が残っている。一緒にいると「おんぶして」とか「だっこして」と甘えてくる。5、6年生になるともう大人の意識が出来始める。特に女子の場合はそれが顕著で、私達さえない中年男性は殆ど見向きもされない(笑)
 やはり3、4年生の子供達というのが一番小学生らしいし、遊んでいて面白い。

 2年間、毎週1日だけの勤務だったが、放課後は殆ど「鬼ごっこ」をして過ごした。あまり他の遊びをした記憶がない。
 追いかけたり、追いかけられたりする興奮や喜びというのはどの子供も持っていて、大げさに言えば人間が本来持っている野生のようなものの現れではないかと思っている。

 しかも私は2年間鬼ごっこをやって、毎回必ず鬼をやらされた…
 そのうち私は面白い鬼ごっことは何かを考えるようになった。

 基本はどの子供もできるだけ均等に追いかけることである。追いかけられない子供を作らない。これは当たり前だろう。
 次に追いかけ方だが、子供の喜ぶ展開は2つしかないように思った。
 ひとつは捕まりそうになったがギリギリ逃げられたという場合、もうひとつは捕まらないと安心していたら意外な展開で捕まってしまったという場合。
 この2つのパターンを組み合わせて追いかけていく。
 子供も私が真剣に鬼をやるのが面白かったようである。よく2年も続いたと思う…

 「かくれんぼ」という遊びも子供は好きだがやはり隠れたり、隠れている相手を見つけたりすることは、人間の野生の記憶と関係あるような気がする。

 人間が他の動物を狩るために追いかけたり、自分より強い動物から身を守るために必死で逃げたり、身を隠したりした頃の記憶が私達の意識のどこかに残っているような気がする。
 子供が遊びを通じて自分の中にあるこうした感覚を体験することは、多分、とても大切なことなのではないかとも思う。子供の遊びの中には人生を逞しく、強く生きていくために必要な何かが含まれていると思う。
 それは無言でゲーム機の液晶の画面を凝視している子供達に欠けているものでもある。