山寺で留守番

 昨日の夕方から朝にかけて久しぶりに雨が降った。

 今日は兼務している山寺で受付をするために車で出かけた。辺鄙な山寺だが、霊場会に入っているので、朱印(お寺を回った印となる判子)を貰いに来られることもあるので誰かがお寺に居ないといけない。なかなか大変である…
 車で走っていると、かなり強く降っていた雨がだんだん小雨になり、やがて止んだ。
 濡れた路面の上を車のタイヤが走る時のしっとりとした感触が気持ちよい。

 山寺に行く途中に中学校がある。
 学校は小高い場所にあり、中学校までは緩やかな、かなり長い坂道になっている。

 車の窓から坂道を懸命に自転車で走っている中学生の男の子が見えた。白いシャツに黒い学生ズボンをはいていた。真新しいシャツなのか、それとも新入生なのかシャツの白さが際立っていた。

 坂道を一生懸命走っている幼い姿を見ていたら、急に何十年も前の中学生の頃を思い出した。すぐ近くに大人の世界があるのだが、親や学校に大切に守られていた。子供でありながら大人になろうと背伸びしていた。大人にとってはささいなことに真剣に悩み、大人にとって大切なことに無神経だった…いろんなことを思い出した。

 山道に入る手前は畑や田んぼが続いていて、檀家さんの家が多い。
 近年、棚や荷台を置いて野菜の無人販売する人が増えた。安いし、新鮮なので有難い。
 無人販売の店が2軒並んでいる場所があって、1軒は檀家さんのおばあちゃんが店番に座っている。品揃えもまちまちなので、無人の店のほうに買いたい品物があって、おばあちゃんの座っている店の前を素通りするのがなんかすごく気まずい。じーっと見られている気がする(笑)今日もキャベツを買おうと思ったら無人のほうに置いてあった…つ、辛い。

 山寺に着くと、また雨が降り出したので外の仕事を休んで少し読書。
 読書の愉しみというのはいろいろあるが、初見の作者を読むのも大きな愉しみである。
 目次、後書き、著書の紹介などをじわじわ読み、適当に中身をパラ読みしていくうちに、いつのまにか腰を据えて読み始める。読み終えると、未読の部分の部分も気になって、もう一度最初から読み直す…今日の初見さんは

           竹村文近「はり100本  鍼灸で甦る身体」(新潮新書)

 1回30分の施術で120本から200本以上の鍼を使うという異色の鍼灸師である。
 本当に打ちたい鍼はたったの8本なのだが、その8本を打つために、全身を調整する目的で数多くの鍼を打つのだという。
 東洋医学は紀元前以来の伝統を持つ世界だが、近年、新しいタイプの治療家がどんどん出始めている。西洋医学の医師の中にも全く新しい観点から治療をする人が出始めていて、興味深いことだと思う。(もちろん玉石混交の部分もあるが…)

 こうした人達が共通して指摘するのは、人間が本来持っている免疫力、抵抗力、自然治癒力などがどんどん衰えているということである。この本にもそのことが書かれてあった。(竹村氏は「身体の鬱」と呼んでいる)

 身体というのは想像以上に複雑だが、心はさらに複雑である。
 心は眼に見えにくい、或いは眼に見えない様々なものとつながっている。
 日本に蔓延している心の「鬱」は現代人の心の病のほんの一部分なのではないかという気がする。身体から心にアプローチできないかということをよく考えるが、鍼灸などの東洋医学にはとても関心ある。まだ鍼灸というものを直接体験したことがないので是非一度体験したいものだと思っている。



 文章を読んでいると鍼が実際に身体に入ってくるようなライブ感がある。
 鍼灸への真剣で、熱い思いも伝わってくる。天職を見つけ、天職に手応えを感じている感覚とでも言おうか。鍼灸という仕事に試行錯誤を経て、自分なりのスタイルを見つけ勢いのある感じも。

 この分野の古典である「鍼灸真髄」(代田文誌著 医道の日本社)を初めて読んだときはかなり新鮮な驚きがあった。今でも手元に置いて時々取り出して読むが、鍼灸の世界というのは古くて新しいと思わずにはいられない。

 著者の写真が裏表紙に載っている。
 南米の高地で、厳しい自然と共に暮らす人達の顔を思い浮かべた。
 精悍で、敬虔で、死期がくればあっさりとこの世を去る…そんな人達の顔を想像した。

 治療家の中には時々、若くして亡くなる方がある。
 著者の師にあたる方も45歳の若さで急逝されたという。このことはいろいろ考えさせられる。真剣な治療は自分の命を削ることもあるのだろう。弟子は師に似るというが、いつまでもお元気で活躍して頂きたい。