お坊さんと「千の風になって」

本山に修行に行く前年、相次いで二人の知人を亡くした。
一人は大学のサークルの先輩の女性で、約1年ぶりに連絡を取ったら病気で亡くなっていることが分かった。年齢は30代だった。
もう一人は同じ道場に通っていた50代の男性だった。
道場で一緒に練習をして、数日後に電話したら脳溢血の為に急逝されていた。

本山に居たのは約1年間だが、時々、この二人のことを思い出した。
本山では毎日、沢山のお経を読むので、時々はこの二人の顔を思い浮かべて、供養になればと思った…

千の風になって」という歌が今でも歌い継がれている。
この歌は死んだ人から残された人人へのメッセージであると取れる。

この歌についてはお坊さんの中にも賛否両論がある。
ある宗派の重鎮であるお坊さんの講演を聴きに行ったら、この歌を認めることは宗教の根底から崩しかねないとかなり否定的な意見だった。一方、禅僧で作家でもある或るお坊さんは仏教では万物は地、水、火、風、空の五大より成ると説いているから、人が死んで、風に帰するというのは当然だと雑誌に書いておられた。

亡くなった方からこの世に残された者へ伝えられる言葉というのはとても新鮮な響きを持つ。この世に残された者を慰める、最も力強い言葉は、亡くなった方の語られる言葉である。この歌の歌詞は日本人の求める<癒し>という感覚にぴったりくるのだろう。
お坊さんの中にも結構、この歌の好きな人がいる。私も今時の歌よりはずっと歌いやすい。

昨日は市の斎場で納灰祭が行われた。
一年間に市内で亡くなられた方の総供養を行う行事である。仏教会の会長が法話された中に興味深い お話があった。私はお供物のお饅頭を渡す係りだったので、きちんと聞けなかったが、諸行無常だからこそ、万物は変わる。そこに修行によって、人が向上する道もある…多分、そのような意味のことを話されたようだった。
諸行無常というと日本人は平家物語の冒頭を思い浮かべる。諸行無常に<陰>のイメージを抱いている人のほうが多いだろう。

だが間違いなく、諸行無常に<陽>陽の側面も存在する。
死によって人生が閉じられてもその子孫が生まれ、その血が継いでゆかれることも、冬枯れの大地から新緑が生まれるのも、町工場が世界的な企業に発展するのも、これらもまた諸行無常であるのだろう。
諸行無常は人生の陰と陽を含む。
そのことを知って「千の風になって」を歌うのもまた意味のあることかもしれない。