<スピリチュアル>という風

千の風になって」について昨日書いた。
私達がこの歌を死者からこの世に残された者への励ましや慰めとしてとらえるなら、やはり意味のある歌だと思う。

死とは恐ろしいものであり、死者は恐ろしい存在であるという感覚が私達の中にある。
私達もいつかは死期を迎え、ご先祖様として祭られるようになるが、私達は残された者の幸せを願いこそすれ、不幸を願うことはないだろう。

 近年、<スピリチュアル>という言葉が広く使われるようになった。
 この言葉は日本人の中に今までにない感性を育てているようである。
 それは死に対するいたずらな恐怖ではなく、亡くなった方が生前と同じように、残されたものとつながりを持つという感覚である。

 昔は夏になるとテレビで怪談特集や心霊写真特集が放送された。
 恐ろしげな効果音と照明、スタジオは墓場風に拵えてあり、出演者は浴衣を着ている…と物凄いベタな番組なのだが(笑)、子供の頃は怖いもの見たさでよく見ていた。今でもこの種の企画は多いのだが、最近は死者が生きている人間と同じように交流するというような話が随分と多くなった。

 もっともその反面もあって、<スピリチュアル>という言葉の陰で、相変わらず、水子のタタリや悪霊の呪いなどを謳って商売をしている人達がいることも残念ながら事実である。
 そして私が気になるのは、死者がその怨念をなくしたことは、実は現世に生きる私達自身が生きることに迫力や本気を亡くしつつあることの反映なのではないかというのも危惧されることではある…

 川底の土をふるっていると、泥やゴミの中から小さな輝石が見つかる…そんな感覚で<スピリチュアル>というものを探求できたらいいなと思っている。

 何しろお坊さんは元祖?<スピリチュアル>である。
 高野山大学にも近年「スピリチュアルケア」なる学科でできたとのことである。<スピリチュアル>が人生の全てになっては間違いだが、人生には欠かせない、とても大切なものだと思っている。

 仏教では<中道>というものが説かれる。
 これはとても難しいもので私の手には余るが、私達は物事の陰の部分だけを見たり、陽の部分だけを見たりすることが大半であるので、まずは物事の陰陽の両面を見るということを心がければ、<中道>というきわめて高度な教えの入り口にどうにかたどり着けるのではないかと思っている。