ペットの死について
【今月の「寺門興隆」】
お坊さん専門誌「寺門興隆」(興山社)が今月も届いた。
「寺門興隆」では毎回、各界の著名人が「寺院・住職に直言・提言する」というテーマで寄稿している。
今月は作家の高橋三千綱氏とホリスティック医学の第一人者帯津良一氏である。
高橋三千綱氏は大変可愛がっていた愛犬を自分の過失で病死させてしまい、それがもとでアルコール依存症にかかったという体験談を書いておられた。
長年可愛がったペットを失ったショックから体調を壊したり、鬱になったという話をよく聞く。
ペットは人間より寿命が短いことが多いので、ペットを飼うということは、ペットの死を受け入れることを心のどこかで覚悟しないといけない。
昨年、ある檀家さんの法事があり、家でのお勤めの後、お墓に行くと、墓地の隅に小さな石が置いてあった。10数年飼っていた愛犬が数日前に死んだので、読経してほしいと言われた。不思議なことに、亡くなった愛犬の名前は私の飼っている犬と同じ名前だった。
檀家さんは愛犬にお経を貰ったととても喜んで下さったが、少子化や核家族化で、家族の人数が減ると、ペットの役割や立場が、家族に近くなるように思う。
犬や猫にお経を読むなんてとんでもないというお坊さんも居られるが、略装や略儀で弔うことは構わないのではないかと私は思っている。特に、それによって飼い主の心が癒され、気持ちの整理がつくのであれば尚更である。
但し、あまり大仰に大きなペットのお墓や銅像を立てたり、戒名付けて盛大なお葬式をするなどというのはどうかと思う。
丁重に弔っても、あくまで人間扱いはしないほうがいいと思っている。
以前、小型犬を抱いた女性がお寺にこられた。
ひっきりなしに犬に話しかけ、眼に入れても痛くないという風だったが、一緒に居たご主人にはなんともつっけんどんで冷たい様子だったのが忘れられない…
私は日本人がどんどん愛情を失いつつあるという印象を持っている。その風潮のなかで、相手が動物であっても愛情を注げるのは素晴らしことである。
但し、ペットをいたずらに人間扱いしたり、家族をほったらかしにしてペットを構ったりするのを見ていると「盲愛」という言葉を思い浮かべてしまう。
「盲愛」はしばしば相手を不幸にする。また多くの場合、一見、相手への愛情に見えて、自分に対する愛情であることが多い。
高橋三千綱氏は、あるお坊さんの言葉に従って別の犬を飼うことでアルコール依存症を抜け出すことができたという。
私の極親しい知人も、愛犬を亡くして底の無いような悲しみの中にいたが、新しい子犬を貰って飼い始めて、ようやく、その悲しみから抜け出すことができたそうである。
ペットを失った悲しみを受け入れるひとつの方法として有効かもしれないと思う。
仏教では人間の苦しみの在り方を「愛するものと分かれること」と「憎んでいるものと出会うこと」の2つを上げている。私達の苦しみは正にこの2つの中にあるといえるだろう。とても明快ではないだろうか?(専門的には「愛別離苦」「怨憎会苦」という。)
それらの不幸に出会った時に、仏教やお寺の存在がそれを越える手助けをできたらと思っている。
※旧名「月刊 住職」
興山社 http://www.kohzansha.com/