生前の枕経


 今日の午前中は妻と梅の収穫。
 いよいよ梅の収穫も終わりに近づいた。午前中の収穫で100キロほど取ることができた。
 梅林は境内のかなり奥にあって、人気が無い。梅林の後ろが30メートルくらいある絶壁になっていて音がよく反響するので、野鳥が鳴くととても鋭い声に聞こえる。「テッペンカケタカ、テッペンカケタカ…」そんな野鳥の声がずっと聞こえていた。(鳥の名前は失念した)

 午後からは住職と梅の樹にお礼肥えを施した。
 果実が実った後は、樹の養分が不足するので、採果の直後くらいから肥料をやらなければならない。住職が肥料を撒いていく。私は草刈機で梅の樹の下草を刈っていく。下草を刈らないと、せっかく施した肥料が雑草に取られてしまうのである。

 仕事を終えて、お風呂で汗を流すのは最高に気持ちの良い時間である。
 汗や土を洗い流して、着替えると、生き返った気持ちになる。この爽快感は外仕事の醍醐味だろう。
 お風呂を出た後、外の床机に腰掛けて、風に吹かれる。初夏の空気が芳しく、甘く感じられる。

 暫く前に伺ったお寺で、そのお寺のご住職から生前の枕経に関するお話を聞く機会があった。
 人が亡くなって、自宅に遺体が帰ってくると、まず菩提寺の僧侶が呼ばれて読経する。この読経を枕経と呼ぶ。
 その住職はこれまで3人の方に生前の枕経を行ったそうである。
 いずれも自分とごく親しい、檀家さんであったり、自分の親族だったそうである。

 それらの方は重い病の床にあって、そのご住職に枕経を頼まれたという。
 お話を聞きながら、自分の死期を自覚して、お坊さんを呼ぶというのはどんな心境なのだろうかと考えた。
 人は自分の死期を自覚したとき、心に秘めた様々な思いというものを整理したいと感じるのではないだろうか。
 長い人生にあった多くのことがらのなかには、人に語ることのできなかった思いが沢山あるはずである。それらになんらかのけじめをつけてから死にたいという気持ちになるのかもしれない。

 生前にお坊さんとにお経を読んでほしい、お坊さんと話をしたいというのは、人生の棚卸みたいなものかもしれない。

 自分にもいつかそのような依頼が来るかもしれないとふと思った。
 その人に自分の人生に納得していただけるようなお経が読めるという自信は、正直言ってまだ無い。ただ間違いなく言えることは、そうした機会を与えてもらうには、相手の方と深い信頼関係にないとできないということである。

 その意味で私がお話を伺った住職は多くの方から信頼寄せられていた立派な方なのだと思う。
 僧侶というのは難しく、またやり甲斐のある仕事だと改めて思った。