風に吹かれて

  


今日はとにかく忙しく、おまけに自分の判断や予想がことごとく裏目に出るということが続いた。
そしてようやく先週くらいからそんなことが多いということにもようやく気がついた。運気とか運勢について言えば「下がっている」時期なのだと実感した。
普段はあまりそういったことを意識しないのだが、予想外のことがいろいろ続いて、ひさしぶりに大きな流れのようなものを感じた。

もちろん嫌なことばかりではなく幾つかのいいこともあった。
本箱を整理していたら昔読んだ中西政次著「弓と禅」(春秋社)が出てきた。
パラ読みしただけなのだが、眼から鱗の落ちるようなことが沢山書いてあった。
この本を初めて読んだのは随分前だが、お坊さんになる前だった。
やはり、この仕事に就いてから読み直すと全然感触が違う。
お坊さんにとっての境地とでもいうべきものが殆ど果てしなく、長い長い行程であり、そして深くて高いものであることが心に沁みるように感じた。

口絵に作者の崇敬する梅路見鸞老師の墨蹟が載っているが、それを見るだけでな尋常でないものが伝わってくる。梅路老師は禅僧であるだけにとどまらず、弓道を極め、加えて剣術、居合、馬術他多方面に非凡な才を発揮された方である。(先日読み返したみやわき心太郎の「牌の音ストーリーズ」でも取り上げられていた)
序文は昭和期を代表する禅僧山田無文老師が書いておられる。

本文の前半は著者の弓道修行が日記風に綴られている。平易ながら味わい深い。
無文老師は序文の中で次の一節を引用して著者を嘆じておられた。


十一月二十四日
一輪挿しから山茶花の花びらがこぼれていた。捨てようとして数片を掌にのせた。見れば見るほどその色鮮やかに、しかも厚みを増して、宝石の如く光り輝いて見える。立っている両足にずっしりと重みが感ぜられ、更にそれが地心に連なって千斤の重みで引かれているようで動こうにも動けない。不思議な体験だった。そのままどれほど時間が経過したのだろうか。二,三秒なのか、十分くらいなのか、それは私にもわからない。ふと我れに返って縁側に出て花びらをそっと捨てた。庭を見ると樹々が燦然と光って見える。苔も濡れたように青々と輝いて見える。目をあげると、屋根も山も空もすべて異様に光り輝いて見える。更にそれらの奥に、すばらしい何者かが見える。私は唯恍惚と見とれていた。踵をかえして茶の間に行った家内や娘がいた。家内や娘も私の目下としての家内や娘ではなくて、強い光を放つ尊い存在として見えるではないか。それは神とも仏ともいうべき尊い存在であった。あなたはよう私の妻になって下さった。娘たちよ、よく私の所へ生まれてきて下さった。ありがたいことだと思われた。妻や子供だけではなかった。机も本も額も襖も目に触れるものすべてが強い光を放っているではないか。翌日になってもかわらなかった。山川草木すべてが絶対者の一部として感ぜられると共に、その奥に絶対者それ自体が観取されるではないか。
 実に不思議な体験だ。第三の眼が開いたのだ。直心の開眼だ。やったぞ。身体が宙に浮いているような毎日だった。

山茶花の一ひらを手に立ちつくす
下手な句であるが、心にうかんだ

遥かに仰ぎ見るような境地であるが、日常生活がままならず、右往左往している時にこの一文を読んだので、急に強い風が吹いてきて、ふと自然の大きさを知ったようなそんな気持ちになった。時々、大きな風が吹いてくれるのは有難いことである。


大いなる者に抱かれあることを 今朝吹く風の涼しさに知る  山田無文