幽霊の思い出

 昨日は所要で京都に出かけて、妻の実家に泊めてもらった。
夕方は四条や河原町の近辺をのんびり散策した。
暑くて気だるいが、そこここに京都らしさを感じられる。

 やはり京都は大通りより路地や小路が楽しい。
大きい通りを適当に折れて路地に入ると、まだ生活感のある古い町屋や個性的なお店が混在している。

 歩いているといつのまにか鴨川の川辺に出た。
 河原は夕涼みの人達で賑わっていた。
 学生らしいバンドが音楽を演奏していた。ロックでもフォークでもなく、古い言い方だが軽音楽と呼ぶのがぴったりで、それが夕涼みの雰囲気にとても合っていた。


 


 お寺は既にお盆の準備で忙しい。この時期に思い出すことがある。

 本山に約一年間居たが、そのうち9月初旬からの三ヶ月が修行の中心である。
 毎日、午前3時に起床してやることといえばお経を読むか掃除するくらいしかない。
 この時期は非常に感覚が鋭くなる。
 とても集中力が高まる時期もあれば、感情のコントロールがうまくいかないと俗にいうキレた状態になることもある。


 そして普段は感じないものを感じることもある。
 睡眠不足で疲労困憊しているから、単なる幻覚といわれればそれまでだが、普段は覚えられない長いお経がすらすら覚えられたりするから、明らかに脳の機能が変化していることが分かる。

 薄暗い道場に蝋燭をともしてお経を読んでいると、よく分からない「何か」が道場の中にはいってうろうろして出て行くのが感じられる…そんな体験を何度もした。一緒に修行した仲間のうち半数はそのような経験をしたと思う。

 一度だけ強烈に覚えているのは、道場の入り口付近でお経を読んでいて、ふと道場の入り口を見たときに、正に誰かが入り口から入ってくる感覚があった。ところが眼には何も見えないのである。私は驚いてお経の本を取り落としてしまった。

 俗に幽霊と呼ばれる存在がある。
 普通は怖い存在とされるが、私が感じたのは、いわば普通の人が普通に入ってきた…そんな感覚だった。

 人が亡くなっても、その思いがこの世に残ることがある。
 それを幽霊と呼ぶなら、幽霊という存在が怖いのではなく、そこに幽霊の抱いている思いが怖いことをさして幽霊は怖いと思い込んでいるのかもしれない。

 道を歩いていて、向こうから見知らぬ人が歩いてきても怖いとは思わない。ところが向こうから歩いてきた人が憎悪や憤怒の形相で歩いてきたらやはり怖いと思うだろう。

 「怖い幽霊」というのは、そのような存在になってまで抱いて思いが恐ろしいものについて「怖い幽霊」となるのであって、死んだ後の存在となることそのものが怖いのではないのでなないかと思う。

 夏になるとテレビではホラーや怪談の番組が毎年のように流されるが、それらを観るたびに思うのは怖いのは私たち自身の思いなのではないかという素朴な疑問である。
 
 お盆にはご先祖様の魂を迎えるとされるが、ご先祖様は、正に向こう側の存在となりながらも、この世の私達を励まし、助けてくれる有難い存在なのである。決して怖くはない。

 お盆には胡瓜で作った馬や、茄子で作った牛をお供えする地域が多い。
 ご先祖様に馬に乗って早々とお越し頂き、帰りはお土産を牛の背中に積んでゆっくり帰って頂くと聞いたことがある。
 ご先祖様を思いやる昔の人達の優しい思いの現われなのだろう。
 私達も心してご先祖様をお迎えしたい。