悪い人はいないという京都新聞の思想について

     


京都新聞観察日記】


 いつだった、出先でテレビをつけると「ウルトラマン」を放送していた。

 戦闘機が怪獣を攻撃しているのだが、ミサイルではなく威嚇弾という兵器を発射している。このウルトラマンでは毎回、できるだけ怪獣を傷つけたり、殺したりしないというのだ。怪獣は悪い宇宙人に操られていて、怪獣に罪はない、だから傷つけたら可哀そう…というような話だった。

 そう言えば、昔の時代劇では悪代官の手先はばったばったと斬られていたのに、いつの間にか手下は峰打ちで済ましてもらい、成敗されるのは悪代官と悪徳商人だけになってしまった。これも良く似た話である。

 日本人はいつの頃からかとても優しくなった。正確には「悪い人はいない」という口当たりのいい思想に言いくるめられるようになったというべきだろう。

 「本当に悪い人はいない」「話せば分かる」というのが表看板なのだが、その一方で家庭も社会もどんどん情を失い、個人中心となった。学校でも社会でも陰湿なイジメが蔓延している。外国に国土を占拠されても、日本人が拉致されても「話せば分かる」と言う。


 数日前に京都新聞に「モンスターペアレントと呼ばないで」という記事が載った。(2008/08/03 14面)
 こういう記事は専門家の談話を引用して構成されているが、今回は児童心理司の山脇由貴子氏と大阪大学教授の小野田正利氏(教育制度学)の談話が引用されている。

 教職員が保護者をモンスターと呼べば、それは相手の人間性を否定するレッテル貼りである。対話をあきらめす、根気よく努力すべし…というのが記事の趣旨である。

 一見すると大変立派な意見であるが、これって本当に正しいのだろうか?

「教職員を破滅させるほどのクレーマーであっても、多くは子供の幸せを願う一人の人間には違いない。全く別の生き物のように呼ぶことは、理解しようとする努力の放棄を意味すると思う」

 本当に立派な意見である(笑)だがこの言葉はそのまま解釈すれば「教職員は破滅しても、相手を理解する努力を放棄するな」としかとれない。

 この主張は<外国が攻めてきても、決して反撃せず憲法九条を守って死になさい>という考えととてもよく似ていないだろうか。

 原理原則として平和を目標に掲げ、後は徹底して個人の自由を謳歌するというのは京都新聞が信奉している思想である。だが平和が破られた時、それを回復する方法は「地道な努力」「地道な対話」しか示してもらえない。これって無責任極まりない。

 個人も国家も同じ人間同士だから根気よく話せば分かる。いつかは分かり合える。戦争になっても国際世論が許しはしない…
 ロシアに占拠された北方領土も、韓国に占拠された竹島も、この思想を信じていれば帰ってくるのだろうか。どう考えても絶対無理である。

 日本が国益を主張できない最大の原因のひとつは個人の自由を徹底して尊重させる一方で、国家や社会を常に否定し続け、国民に被害者意識を植え続ける人達が存在するからである。

『競争を原理とする市場の論理が社会に浸透し、「負け組」になる不安におびえる日々が通続く。仕事も育児も他人の評価が気になり、家族をいたわる余裕もない。そんな孤立した大人たちの不満が募り、身近な学校への八つ当たりという形で表れている』(山脇氏の談話)


 悪いのは国家であり、社会である…これだって立派なレッテル貼りである(笑)
 何より八つ当たりしても仕方ないとでも言わんばかりなのが恐ろしい。

 こういった記事は取材し、談話を構成する側の主観に大きく左右される。この記事の印象が悪いのは山脇氏や小野田氏の主張が間違っているからではなく、記事を執筆した京都新聞の担当者が悪いのである(笑)

 だれが使いはじめたのか「格差社会」という便利なことばを私達は慎重に使わないといけない。
 悪いのは社会であると言い聞かせられているうちに、自身への反省も相手への毅然とした態度も生まれてこなくなるからだ。

 それより「本質を隠すレッテル」という言葉は京都新聞の大好きな「日本の軍国主義」とか「ジェンダー」とかにぴったりではないだろうか?