お経の話 

               

                  【お知らせ】
 
      昨日、山寺のHPを更新致しました。
      宜しければ御笑覧下さいませ
      http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/



岩波文庫の「ブッダのことば」(中村元 訳)に収められているのは数ある仏典の中でも最古のものである。

その言葉の数々はお釈迦様が生きておられた頃の説法の姿をかなり正確に伝えてるといわれる。そのことは驚きであり、喜びである。最近は寝る前に数ページづつ読むのを愉しみにしている。
ある時は修行者に、あるときは貧しい牛飼いに簡潔な言葉と分かりやすい喩えをもって静かに語られているお釈迦さまの姿が髣髴としてくることがある。

今日、私達が日々唱えるお経は直接、お釈迦様が説かれたものではないが、お釈迦様の言葉を根っことして、その幹や枝葉にあたるものだと思っている。

法事では大抵、在家勤行という薄いお経の本を一緒に読み、参拝の方のお焼香に合わせて理趣経などのお経を読むことが多い。

故人にとっては残された、家族や知己が集まってお経を読んでくれるのは嬉しいことなのではないかと思っている。

お経は漢文であり、読んでも意味の分からないようなものを読んでも無駄だという人がいるが私はそうは思っていない。

仏像に関する知識がなくても、威容を湛えた仏像の前に立つと、それがどのような仏様か分からなくても何かしら敬虔な気持ちになるようなものだと思う。

お経の大元にあるのはお釈迦さの言葉とその憶(おもい)であり、お経を書かれた方の憶、このお経を読んできた数限りない僧侶や人達の憶がお経には詰まっていると思っている。

私達がお経を読むことで、故人の眼前に光り輝く仏の姿が現れたら素晴らしいと思う。
その仏様の姿に打たれて、故人やご先祖様が心を清められ、悔悟し、その心を新たにできたら素晴らしいと思っている。


今はお経を読みながら、ご本尊やお釈迦様を初めとする諸仏、供養の対象となる故人、お経そのものの3つに思いを向けるようにしている。
但し、3つ同時というのは難しいのでかなりアトランダムではあるが。

一般の方と一緒にお経を読むと、ついつい唱和することに意識がいってしまうことがある。
 お年寄りが多いけどちゃんとついてきてもらってるかなとか、一瞬、気持ちがそれたときに自分がどこを読んでいるか分からなくなったりする(笑)

 仏様や故人に上手く気持ちが向けられたと思った瞬間、お経を読み間違えたり、途切れたりすることもある。これも焦るし、カッコ悪い。「お経は上手く読めてないんですけど、実際にはすごくいい状態なんです」と弁解するわけには行かないし(笑)なかなかツライところではある…





 あたかも、母が己(おの)が独り子を命を掛けて護るように、そのように一切のいきとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。

                                  「ブッダのことば」第1章8節149