夕日の記憶

 

時々、子供の頃の記憶が頭に浮かぶことがある。

 楽しかったこと、悲しかったこと、美しかったこと、恐ろしかったこと…
 私は子供の頃の記憶というものがその人の人生をかなりの部分で大きく左右していると思っている。何を求め、何を恐れるのかといった基本的な指向のようなものは子供の頃の記憶に追うところが大きいように思う。

 私は6歳くらいまで京都市内に住んでいた。
 家のすぐそばに4車線くらいある大きな道路があり、幼稚園に行くには陸橋を通って、道路の反対側に渡っていた。

 父と手をつないでその陸橋をわたった記憶がある。父と私は陸橋を渡って家に向かっているのである。
 なぜその日のことを覚えているかというと夕日の印象が強烈だったからだ。
 風景全体が真っ赤に染まっているように感じた。

 記憶というのは時間が経つにつれて強調されたり、曖昧になったり、創作されたりするが、風景全体が真っ赤になるなどというのはたぶん勝手な思い込みなのだろう。
 だが何故かすさまじいような夕日の中を父と手をつないで家に向かっていた記憶が強く印象に残っている。

 懇意にして頂いている撮影家の方が先日、山寺の風景を撮りに見えたのだが、撮影の難しいものは何ですかと尋ねたら、雲などの空の景色と答えられた。

 確かに夕日や雲などは瞬く間に色や形や明るさを変えていく。
 だからこそその一瞬の美しさを形にとどめることができれば素晴らしいのだろう。
 自然は最高の芸術を表すが、私は空の美しさはその中でも第一級のものだと思っている。

 そして空に対する憧れや畏怖のなかにはとても素朴で純粋な宗教的意識のようなものが含まれているように思う。

 最近、よく父と手をつないで渡った陸橋の記憶を思いだす。

 身体を包む夕日の色、家に向かう安心感、父親への信頼や愛情、それらが渾然となって思い出される。

 私達は一生の間に何度素晴らしい夕日や美しい雲をみることができるのだろうか。
その数はそう多くないはずである。