ENDLESS RAIN

   
    【お知らせ】


   山寺のHPを少しだけ更新致しました。宜しければ御笑覧下さいませ
   http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/



 昨日の夕方、町に出かけるといくつもの小学校では運動会の準備が行われていた。

縦横に張られた万国旗、白いテント(←屋根だけ張って脚は畳んである)、グランドの真新しいライン…この時期ならではの風景だが、今日は無情にも早朝からどしゃぶりになり、雨は断続的に一日中降り続いた。


お坊さんの役割の中に経頭(きょうとう)というのがある。

大勢で読経するときに、最初に発声し、全体を引っ張っていく役割である。
声というのは高さに個人差があるが、大勢で読経する場合はこの経頭の声の高さに合わせて読経することになっている。

本山の同期生の中にかなり音域の高い者がいて、この人物が経頭になると合わせるのが大変だった。ある日、思いついてXJAPANの「ENDLESS RAIN」を歌ってもらったら、声が高いだけあってメチャクチャ上手い!(笑)同期生の間で大評判になった。
そんな彼も今は地元で立派なお坊さんとして活躍しているそうである。本山での懐かしい思い出である。

XJAPANの「ENDLESS RAIN」は名曲である。

悲しさ、寂しさといった陰の感情とそれに翻弄されても最後はそれを越えようとする圧倒的な力強さが一体となっている。降り続く雨は悲しみの雨であるが、止まない雨の中を歩き続ける強い意志や諦観に冴々とした心を感じる。夢のように美しい叙情と狂気にも似た冷徹さにいつ聞いても心を打たれ、清められる気がする。

降り止まない雨のように悲しみが止まない時に「眺め(長雨)せしまに」と詠嘆するだけでなく、敢えて雨に打たれても歩き続けようとする人間は少ない。

一方、仏教の考え方には雨そのものが存在しないという教えもある。

雨も存在しない、悲しみも存在しない、雨を悲しむ私達自身すら存在しない、この世全てが存在しないという思想がある。これはある意味すごい思想である。

だが、私達が日常でそうした空観に生きることは難しいし、雨の悲しみは悲しみとして受け止めればいいのだろう。

そして、悲しみが存在するように雨に打たれてもひるまず歩みだそうとする人間の意志もまた確かに存在する。
 悲しみに心の焦点を合わせると悲しみはどんどん大きく、深くなっていく。悲しみに焦点を合わせ続けていると最後は人生そのものがすっぽり悲しみに覆われているかのように思えることがある。だがそれは大いなる錯覚に過ぎない。

 どんな悲しみの中にあっても私達の心の奥には強烈な意思が存在し続けている。
 それは眠りについているだけにすぎないのだが、いつの間にか私たちはそんなもの存在しないと思い込んでいることが多い。
 あらゆる困難を打ち破り、あらゆる困難を諦観し尽くす、心の強さが誰の心にも宿っている。
 「ENDLESS RAIN」はいつもその存在を思い起こさせてくれる。



【追記】

「ENDLESS RAIN」の歌詞については以下のサイトを参照させて頂きました。感謝申し上げます
   
       http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=35533