心とつきあう


本日は妻と弓道場へ。

悲しいかな初心者のうちは矢が的に届かない…
地面に当った矢がワンバウンドしてようやく的の周囲に届くのも情けない。

熟練の方はめいめい自分専用の矢を持って来られるが、我々初心者は道場に備え付けの矢をお借りして練習する。
矢は一箇所にまとめておいてあるが、色も形も様々なので間違えることはない…はずなのだが恐ろしいことに一番偉い会長さんの矢が何故か私達初心者の使う矢と色も形もそっくりなのである…
今日は矢をつがえて引き絞ってから矢羽のところに会長様の名前の書かれたシールが貼られているのに気づいて身体がフリーズしてしまった。妻も前回、同じ失敗をしたそうである。気をつけねば…

弓道場にいると例え僅かな時間でも日常の細々したことが頭から離れるのは有り難い。
二人で弓道場に通うのもまだ暫く続きそうである。

心を専(もっぱら)にするというのは難しいことである。
時々、座禅や瞑想の真似事をするが雑念が途切れることがない。


心が専らでないというのは、単に雑念が湧くといったことではなく、自分にとってのマイナスの出来事が頭から離れないことでもある。
お恥ずかしい話だが、私は自分が相手に言われたたった一言の悪口や非難が何十年も心を離れないことに気づいて愕然とすることがある。

母親がいつも子供を大切に育てていたにもかかわらず、その母親がたった一回、思いもかけずに口にした拒絶の言葉を子供が忘れずにいる…こういった例は以外に多い。
教師から言われたたった一言で深く傷つけられたという話もよく聞く。
教師というのはしばしば親に準ずるような大きな影響を与えるものだと痛感する。

<自分を守ること>は心の大きな機能であり、自分が傷ついたことについては信じられないほど深い記憶を残して、以後は同じ心の傷を受けないようにしようとする。

心の傷だと思っていることは実は心を守ろうという心自身の働きによるところが大きいのかもしれない。

今日はトラウマやコンプレックスなど心の傷について語られることが多い。

ただ、私達がどれだけ両親をはじめ周囲に愛されていたかということを忘れがちである。
そのことはしっかり思い起こすべきだろう。不幸を数えるのなら、自分が当たり前だと思っている(或いは不満で一杯の)現実の中に実は沢山の感謝すべきことが埋もれているものである。

私達の心は愛されたことは忘れて、愛されなかったことは決して忘れない。
そんな自分の心と付き合うのは容易ではない。