与奪ということ


今日は兼務している山寺で留守番の日である。

庫裏の側を歩いていると木の上から落ちてきたものがある。
見ると大きなスズメバチが緑色の塊と一緒になって地面の上で動いていた。
そして緑色の塊と見えたのは手足をなくしたカマキリだった。
 スズメバチは頑丈な顎でカマキリを解体すると軽々と抱えてどこかへ飛び去っていった。

 カマキリはかなり戦闘的な生き物で、自分より遥かに大きな生き物にも向かってゆくが、スズメバチの敵ではなかったらしい。山寺に住んでいると時々、自然の怜悧な姿を垣間見ることがある。

 人間以外の生き物にとっては世界というのは<奪う>と<奪われる>という2つの立場しかないのかもしれない。

 一方、人間は<与える>という意識を持つことができる。
 尤も、昨今の社会は<勝ち組と負け組>と言われるようになって、どのように勝ちにいくか、負けないようにするかという話ばかり良く聞くが…

 非常にユニークな活動をしている治療家の方で遠藤喨及という方がおられる。※
 この方の「気心道」(だいわ文庫)という本を読んでいたら面白いワークが載っていた。

 2人組になってひとりがまず「この世界とは自分が何かを獲得するところ」だと思うと、相手には重く、不快に感じられるが「この世界とは自分が何かを与えるところ」だと思うと相手から快く、軽いものが感じられるというのである。

 私達は自分の心というものは他人に分からないと思っているが案外、伝わっていることが多い。以心伝心というと特別な能力が必要に思えるが、私達ははっきり自覚しなくても「なんとなくあの人が苦手」とか「あの人ともっと一緒に居たい」という感覚を感じることは多い。(私達凡人には好き嫌いという感覚があるし、見かけの良し悪しに左右されていることも多いのだが)

 仏様の心というのは多分<与えたい>という心なのではないかと思う。
 一方、私達の心は<与えて欲しい>とか<(自分は)与えられなかった>という心である。

 私達凡夫が少しでも仏様の心に近づこうと思ったら僅かでいいから<与える>という意識を持つことではないだろうか。
 その意味では昨今の社会は完全に逆の方向に向かっていることになる。



 自分自身のイメージと他人のイメージというのはリンクしているものである。

 だから自分はこの世から奪ってやる!と思っている人というのは周りの人間は自分から奪おうとする存在として映ることになる。こうした人生観でずっと生きていくのはとても辛いことである。

 一方、<与える>という意識を持つことはすごく難しそうに見えるが、それは他人や社会もまた自分に与えてくれるのだという世界観に通じることになる。そうした感覚に自分を委ねることができれば、生きていくのがすごく楽になるのも事実である。

 問題なのは私達が与えてもらったことはよく覚えていなくて、奪われたことは実に良く覚えているものである。そこが正に難しいところではある…

 機会があるごとに、自分が与えられたことを思い出し、そのことに有り難いと思えるようになれればいいのだが…どうしたら<与える>という感覚を得られるのかは私にとっても大きな課題だと思っている。

 ※非常に立派な方だとは思うが、主張されていることの一部については首肯しかねることもあるので念の為。