自力と他力

お坊さんの使う言葉には仏教独特の専門用語が多い。
如来」とか「菩薩」などの言葉は仏教用語といっていい。

さらに同じ言葉でも在家(一般の方)と違う使い方をする言葉がある。
法要などでどのようなお経を読むかといった順番や組み合わせを「次第」(しだい)という場合が多い。
或いはその順序など紙に書いたものを「次第」と呼ぶ。これなどはそういった言葉の例である。

「他力本願」は「他人をあてにする」という意味で使われる言葉だが、本来の「他力」とは仏様の力のことである。
自分がどうこうしようというのではなく、ひたすら仏様を信じ、おまかせする態度である。

そして他力の反対は自力である。
これは自分自身が様々な努力を重ねて仏様に近づくことである。

仏教では他力の宗教の代表が浄土真宗であり、自力の宗教の代表が禅宗である。

何があっても「南無阿弥陀仏」を念じ、仏様に感謝し、仏にすがる…この他力の態度は一見、消極的に見えたり、ある種の頑迷に見えなくもない。
現代の私達には座禅のような修行に打ち込んで自己を高めていくという自力の態度のほうが肯定的に感じられる。
欧米で禅宗が高く評価されるのも、個人という意識の確立された欧米人の感性には自力という立場のほうが分かりやすいからだと思う。

私の属する密教もまた自力の宗教といえる。
密教には印を結ぶ、真言を唱える、観想するなど様々な修行が伝えられている。
密教の一部は修験道などとも融合していて、山を駆ける、滝に打たれる、火渡りなどの荒行もその修行に含まれる。

修行者の究極の目的は仏に近づくことにあるはずである。
求道心、向上心、探究心といった素晴らしい意識を持ったお坊さんが大勢居られるのも事実である。

ところがその一方でそうした修行をして特別な力を得たいという方向に堕してしまう人々が後を絶たないのも現実である。
霊能力や法力といった特別な力を得て、お金や名声や権勢の欲を満たそうとする人々である。
中には自分が神か仏のように奉られている人までいる。

それらを見ていると今度は他力を貫く人々というのが逆に素晴らしく見えてくることがある。
特別なことは何も求めず「南無阿弥陀仏」という称名念仏に打ち込み、仏に感謝し、仏にすがり、仏を称えるという態度は突き詰めれば自分を捨てるという行為であり、自我を滅するという意味では欲に堕した一部の自力の修行者を遥かに越えているとも言える。

自力の立場からは増上慢が生まれる。自分の能力を誇り、他人を見下す態度である。
一方、他力の立場からは卑下慢が生まれる。自分を低く見下したり、自助の努力を放棄する人達である。それもまた道を誤った態度であると感じられる。

一生懸命自分で道を切り開き努力する人が、同時に自分を誇らず、他人を見下さず、素直な心でいるというのは大変難しいことなのだろうと思う。

「自力と他力の妙合」という言葉が伝えられているが、そこに至る道は遥かに遠く、尊く感じられる。