蓮の実


歳の近い従妹が結婚することになった。
従妹とは子供の頃、時々遊んだが、立派な社会人になってもその面影のどこかに子供の頃の姿を重ねて見てしまう。子供の頃の印象が強いと結婚といわれてもピンとこない。

両親は私のような立派な?中年男にも子供の頃の面影を重ねて観ているのかもしれないと思うときがある。
何しろ外出しようとすると「ハンカチ持ったか?」とか「帽子を被れ」などといまだに言われるのである…親も私も幾つになっても結局、親にとって私は昔のままの出来の悪い子供でしかないのかもしれない。多分、親が死ぬまでこの関係は続くのだと思う。そして私もまた子供が生まれたら、そのような関係を築くのかもしれない。


お寺と一口に言っても千差万別で、大きなお寺、小さなお寺、田舎のお寺、都会のお寺…と様々である。
ただ全体として仕事とプライベートに区別が曖昧なことが多いのではないかと思う。それを嫌ってお寺とは別に家を構え、お寺に出勤するというお坊さんもおられる。

ウチなどは家族で切り盛りしているお寺の典型である。
仕事の場としてお寺と住居としての庫裏が一緒であり、加えて2世帯が同居している。鍵の掛かるのはトイレの個室だけで、常にお互いの気配を感じながら働き、暮らしている。私でも大変なのだから妻などは本当に苦労しているといつも申し訳なく思っている。

一緒に働いているのが親なのか上司なのかその区別は付きにくいと言える。自分が子供の立場でも親に意見しなければならない時もある。
考え方の違いで衝突することも時々あるが、親子の感情というものが絡んでくると収集が付かなくなることもある。
私なりにお寺のために考えていることが全く理解してもらえないことも結構ある…

昨日も親と意見が全く合わなくて、つくづく困ったな…と受付にある机に前に座ってちょっと暗い気持ちで居た。
ふと机の隅に枯れた蓮の茎が一本置いてあることに気づいた。
花材にするつもりで置いてあったのかもしれない。手に取ると先端は小さなお碗のような形で、中に蓮の実が幾つも並んでいた。全体に濃い茶色で先端の形は蜂の巣にも似ている。

そのとき、なぜかその枯れた蓮の茎が私に「がんばりなさい」と励ましてくれている気がした。
そんな感覚は初めてだったのでちょっとびっくりした。すぐ眼の前に置いてあったシャープペンシルを手に取るとやはりおなじように「がんばりなさい」と言ってくれているような気がした。
感動したというとぴったりこないのだが、そんな経験は初めてだったので少し嬉しかった。

それは眼に見えない力とかいった大げさなものではなくて、この世に存在しているものはごく普通に、お互いに励ましあって生きているのかもしれないと思った。