大根の味 ズボラの味

京都新聞観察日記】

 天気予報に違わず、昼前から雨が降り始め、午後はお参りの方も少なくなった。

 3時頃に雨足が強まると、あたりは薄暗くなり、気温も下がった。冷たい風に黄色いケヤキの落ち葉が舞い散る風景は何とも言えず寒々としていた。

 今晩は兼務しているお寺の檀家さんが作ってくれた大根炊きを頂いた。本日は大根炊きの最終日である。

 大根炊きといっても大根だけでなく油揚げ、椎茸、人参、蒟蒻なども入っている。それでいておでんとも違うなんとも懐かしいような味である。寒くなると温かい煮物はご馳走である。
 煮物というのは少量作るより大きな鍋で沢山作るほうが美味しいと言われる。熱の通りがまろやかになるせいなのではないかと思うのだが面白い。
 檀家さんの作る大根炊きも薪を使って大きな鉄鍋で作る。調理担当の方は本当に大変だっただろう。
手間暇がかかっているからこその貴重な味である。家族みんなで有難く、美味しく頂戴した。


 今日の京都新聞には有名な料理研究家の奥園壽子氏の「ズボラ料理」が取り上げられていた。
(「食再発見 変化の形 42」)
 奥園氏が京都新聞に連載しておられたエッセイは楽しみにしていた。
 料理のテクニックは合理的でも家族への愛情はしっかり伝わってきたからである。

 だが記事の中での「ズボラ料理」の取り上げ方がなんとなく引っ掛かった。
 どう言ったらいいのか<家事はストレスである>とか<家事という長時間労働で女性は縛られている>という主張が見え隠れしているのである。「素直に手抜き」とまで書いてある。

 私は奥園氏の「ズボラ料理」というのは時間や素材を合理的に使って家族の喜ぶ料理を作ることだと思うのだが、記事の中では主婦は家族の為に時間を割くことそのものがストレスととられかねない書き方をしていることが気になった。

 妻にとって家事がストレスなら、外で働く夫にとっては仕事がストレスである。子供にとっては勉強や学校生活がストレスである。大人も子供も、夫も妻もみんなストレスの中に生きている…こんな人生観でいいのかなという気がする。

 家庭があり、家族があるから家事がある。
 そこに満足したり感謝したりするのではなくて、面倒なことは嫌だし、とにかく楽したいというのがまず結論だったらちょっと寒々とした感じがする。

 ストレスという言葉は使い方を間違うと怖い言葉である。
 私たちの中にある不平不満、我慢したくない、努力したくないなどなどを正当化しかねないからだ。奥園氏は工夫するという努力で家族に愛情たっぷりの料理を時間をかけずに作るという課題を解決してみせたのである。

 主婦の方達とお話していて面白いことに気がついたことがある。
 50代以上の主婦の方は自分がいかに家事を手を抜かないかを自慢することが多いのに対して、20代から30代の主婦の方は自分がいかに上手に家事の手を抜くかを自慢するのである。この違いはなかなか面白い。

 良妻賢母というイメージに縛られる必要は無いし、やたらと手間のかかる伝統的なレシピ従う必要もない。合理的な工夫も必要だろう。

 だが同時に母親が家族に尽くすという意識があってもいいのではないかなと思う。
 尽くすとは時間も手間も惜しまないことである。もちろん時には手抜きもサボりもありであるし、無理は禁物である。奥園氏の言うように既成概念にとらわれない工夫も必要であろう。

 日本人の中から他人に尽くすという意識や気概が無くなりつつある。
 その危機の出発点は家庭にあるのではないかという気がするのだが…