宗教と無宗教の間
【お知らせ】
昨日、山寺のHP更新致しました。
宜しければ御笑覧下さいませ
http://ujimaccya69.hp.infoseek.co.jp/
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本日は曇り後、雨である。お参りの方も殆んど無い。
人気の無い参道には落ち葉が積もり、荒涼とした感じがする。
お参りがなくても、山門の受付には誰か居なくてはならない。
境内のすぐ横を川が流れているので、受付には川からの冷気が流れてきてかなり寒いっ…
暇なので随分前に買った尾関章「量子論の宿題は解けるか」(講談社ブルーバックス)をパラ読みする。
本書は<量子論>の(10年ほど前の)最先端の研究者31人へのインタビュー集である。
<量子論>の体系的な解説などは無いが、研究者の風貌やインタビューの行われた場所や背景などが事細かに書かれていて、研究者へのインタビューをすぐ横で見聞しているような感覚がある。
仏教のひとつの課題は<世界観>であると思うのだが、量子論で論じられていることは仏教の問題と無縁ではないと感じられる。
宗教家から「世界の全ては<空>である」といわれてバカバカしいと一笑に付す人達は量子論の研究者から「世界は瞬間、瞬間に枝分かれしている」と言われて同じように一笑に付すことが出来るのだろうか。
少なくとも日常的な世界観と相容れないという意味では何ら差が無いように感じる。
この世には宗教的なものを認めたとたん、全てのことを認めてしまう人達が大勢居る。
例えばインドに居る聖人が空中から灰を取り出すとか、宇宙エネルギーの入った水を飲めば病気が治る…というようなまことしやかな話である。
一方、日本には宗教を平然と否定する人達も大勢居る。
「魂など存在しないことを科学的に証明した」と主張する科学者すらいる。
だが宗教に関するグローバルスタンダードとは世界のほぼ全ての人々が何らかの信仰、宗教の内にあり、日本のように宗教が安易に否定されるのは例外的である。
少し前もイスラム圏で外国人が縫ぐるみにイスラムの聖人の名前をつけたという理由で殺されかけた。
アメリカには聖書に反するという理由で進化論を拒絶する人達が数多く居る。神を否定などしたらたちまち身の危険にさらされるだろう。
日本を除く世界は宗教的権威を認め、そこに科学的世界観を持ち込むことを認めていないのである。
宗教の在る国が良いのか、宗教が実質的に存在しない日本のような国が良いのか一概には言えない。
日本人は宗教を失う事で倫理や道徳のかなりの部分を喪失し、即物的な拝金主義の中に埋もれてしまっている。そうした世の中で人々は不安や苛立ちの中で生きることを余儀なくされている。
そして私には、<科学的>と自認する人達の態度は宗教を絶対視する人達にとても良く似ているようにも感じられる。
一方、宗教が支配的な社会では宗教的な権威や戒律で社会が上手く機能しなかったり、科学的な教育が拒否されている。これらが望ましいとは思えないのも事実である。
正しい生き方や正しいものの見方というのは宗教や科学といった範疇を超えたもっと別の何かによって模索されるべきなのかもしれない。