親を求める心
12月というのは落ち着かない。
いろんな用事が入るので普段の生活のリズムがつかめなくなることがある。
今週は兵庫県で行われる霊場会の総会で1時間程度の発表を課せられた。
週末は籍だけ置いている地元の歴史研究会でも簡単な発表を依頼され、来月は従妹の結婚式でスピーチを頼まれた。
どれも止む無く引き受けたものばかりだが結構準備が大変である…
11月に従妹が結婚相手をつれて紅葉を見に来てくれた。
従妹の結婚相手は背の高い、性格の良さそうな青年で、美人で性格の良い従妹とはお似合いだった。
叔父と叔母がもみじ祭りの手伝いに来てくれた時に結婚相手のことを「優しそうな子だね」と何気なく言ったら、二人とも本当に嬉しそうな表情になったので、ちょっとびっくりした。
娘を持つ親というのは結婚相手が優しいということでこんなに喜べるのかと思うと、親というのは何とも有難いものだなあとこちらまで心がじんわりと温かくなった。
逆に言うと子供にとっても親の存在は圧倒的であり、子供は親との関係性を通じて人間関係を学び、自分自身を見出していく。だから親との関係が上手くいかないと、人生に大きなハンディを背負うことになる。そして両親の夫婦仲が良くないと、当然、子供の人間観や結婚観に大きく影響してくる。
幼い子供がひたすら母親を求める姿を見かけることがある。
自分の母親が人より美しいとか人より優れているとかではなく、正に自分の母親だからこそ求める…その姿に心を打たれることがある。
人間の心を深く尋ねた時、私達の心の底には幾つになっても親を求める心が内在しているのではないかと感じることがある。
親というのは自分を生んだ根源の存在であり、親を求める心というのはその根源に帰りたいという感情ではないかという気がする。それは言い換えれば、大きな大きな安心の境地を求める心である。
御本尊である阿弥陀様を説明するときに私は「母親のように全てを受け入れてくれる存在」ということがあるが、あながち間違ってはいないと思う。
母親を求める心というのは宗教に向かう心とどこかで深くつながっているのだろう。