<愛情>と<認識力>


 夜、国道を走っていると道端に狸が倒れていた。
 狸は車に轢かれたようだった。狸は車などが近づくとたじろいで身動きできなくなり、轢かれてしまうことが良くあるのである。両眼を開いたまま倒れたらしく車のヘッドライトに照らされた両眼がキラキラと鋭く光っていた。合掌




 昨日、雑誌を整理していたらちょっと面白い記事を見つけた。

 武道雑誌「秘伝」(BABジャパン)1997年9月号に作家の桑沢慧氏が『植芝盛平という「大宇宙」』という論考を寄稿されているが、その中に以下のようなエピソードが語られている。

 剣道を修行されている桑沢氏は或る時壁にぶつかり、一方的に相手に打たれることが多かったが、試みに相手を敵とは思わず、「あなたが好きだ」と強く思い続けるようにしたところ相手の動きがよく見えるようになった、それだけでなく桑沢氏と対峙した相手は武道的な殺気ではなく愛情という全く異なった気に接して、心を乱し、隙を生じさせて自滅するというようになり、桑沢氏は一方的に打たれるという状況から脱することふができたという。

 武道では殺気の大きさを競い合い、相手の気を無視することが常道だが、殺気の変わりに「愛しさ」を以って相手に対峙することで「相手の気を飲む」ことができることに気づいたというのが桑沢氏の持論だが、この話は大変に興味深い。

 この記事を読んで思ったのは<愛情>というのは感情であり、一方、<認識力>というのは理知的な心の働きと思われがちである実は<愛情>というのは<認識力>と繋がることが可能であり、愛情の深さや広さに随って高度な認識力を得ることが可能なのではないかということである。

 尤も我々の心を占めるのは往々にして自分を愛しいと思う自己愛であることが多い。

 その自己愛を超えたもっと大きな愛情を獲得できたときに、人間は深い知性や洞察力を獲得できるのではないだろうか。

 そうしたプロセスの遥かかなたに仏教の説く<智慧>というものが生じるのではないだろうか。
 ふとそんなことを考えた。