入神の武道家 植芝盛平翁

 運動科学研究者の高岡英夫氏は大東流合気武術の佐川幸義師範を「近現代武術史上最高の天才」と評した。

 筑波大学大学院の数学系教授である木村達雄氏は佐川幸義師範の高弟として知られるが、佐川師範の超絶的な武技は木村氏の「透明な力」(講談社)に詳しい。私は始めて本書を読んだ時はその凄まじい内容に驚いたことを今でもよく覚えている。「透明な力」に刺激を受けた私はそれから何年か合気道系の道場に通った。


 同じ木村氏の「合気習得への道  佐川幸義先生に就いた二十年」(合気ニュース)の中に合気道開祖植芝盛平翁にまつわるエピソードが披瀝されている。


 木村氏が白帯の練習生として植芝翁の道場に通っていた頃のことである。

 或る時、百人余りの門下生を前に植芝翁が「合気をやる者は遠くアメリカの心までわからねばならぬ」と言われたそうである。その時、木村氏はならば自分の心も分かるのかと思い、心の中で「僕を投げて」と思ったそうである(笑)すると…あらぬ方向を向いていた植芝翁が突然、木村氏の方を振り返るや、一直線に歩み寄ってこられたそうである。「盛平翁の背後にとてつもなく大きな壁があって、翁と共にドドドドドと迫ってくる」ような迫力で迫ってきた植芝翁は木村氏の前に立つと「入り身投げ」のような形で右手を上げたので木村氏はそのまま後ろに倒れてしまったそうである。植芝翁が「それでいいんじゃ」と振り返って言われたので木村氏は思わず平伏したという。


 佐川幸義師の超絶的な身体能力は凄まじいという他ないが、余人には神技と見えるその技も、佐川氏はあくまで物理的な身体操作の研究上に生じたものではないかと推察される。

 佐川幸義師をはじめ、武田惣角塩田剛三など並み居る体術の達人、名人と比較した場合、植芝翁は極めて宗教的、神秘的である点で傑出した存在である。



 植芝翁の創始された合気道は相手の攻撃を待ち受けて<反撃>することが<攻撃>に変化することが多い。(こういう<攻撃>は能動的でないという意味で<待撃>という言い方のほうが正確かもしれない)

 こうした<待撃型>の武術は数は少ないが、中国の太極拳などにもこうした要素が見られる。実際、太極拳の用法(技の実際の使用)が表演されると合気道に似たものが見受けられることがしばしばある。
 また護身術などもその性質上、こうした<待撃型>の武術としての性格を具えているといえるかもしれない。


 但し、植芝翁の合気道はもうひとつ別の側面を持っていると考えられる。

 植芝翁がその武術的境地を著しく開発された体験を幾つか語られているが、自分が宇宙と一体であると感得されたエピソードが有名である。

 即ち「宇宙即我」となった植芝翁にとっては自分を攻撃することは宇宙を攻撃することであり、それは必ず敗れることに他ならない…というのである。この体験を始めて知った時はあまりに気宇壮大な話で理解できなかったが、最近になってその一端が少し理解できるようになった。

 自己の想念が宇宙に遍満し、その想いが善なれば善なる結果が招かれ、悪なれば悪なる結果が招かれるというのは、実は仏教的な因果論と大きく重なるのである。(ユダヤ教キリスト教の一部にもこの考えを支持肯定する場合がある)暫く前に流行した、<鏡の法則>なるものも実はこの原理を説いているに過ぎない。

 攻撃を待って、即反撃と為すという合気道の術理は、植芝翁の宗教的世界観、宇宙観と不即不離の関係にあるのである。
 植芝翁については様々な言説が語られるが、このことについてはあまり直裁に語られることが少ないのではないだろうか。


 植芝翁は大本教出口王仁三郎氏に帰依され、綾部にある大本教の本拠で合気道を指導されることもあった。大本教の本拠地は当地舞鶴と指呼の距離である。かって舞鶴に海軍鎮守府があった往時は舞鶴の海軍軍属も植芝翁に手ほどきを受ける者も多かったそうである。

 植芝翁の存在は語りがたい魅力に満ちている。