サイモン教授の憂鬱

中学生の頃、愛読していたSF小説エドモンド・ハミルトンの<キャプテン・フューチャー>シリーズがある。主人公キャプテン・フューチャーを育てたサイモン教授は不治の病にかかり、自分の脳を移動装置付きのカプセルに移植して生きている。いわば脳だけで存在している特異な人物である。(ちなみにNHKで放映されたアニメでは主人公を広川太一郎氏が演じておられた。「どっちを向いても宇宙、どこまでいっても未来…」という主題歌がグーでした。懐かしい…)

<私>という意識は脳に存在するというのだろうかというのがかなり長い間の疑問である。

少し前に高田明和「脳からストレスが消える」(光文社)を読んだら。面白いことが書いてあった。

肝臓の移植手術を受けた患者は自分が自分でないような感覚に陥り、自分や親しい友人を上手く認識できなくなるという現象があるというのである。高田明和氏はその原因として肝臓が様々な脳内物質の生成を行っていることをあげている。

<私>という意識は単に脳によって発生するのではな臓器の生成する化学物質の量や性質に大きく左右されるというのだ。

<私>=脳なのではなく、肉体あっての<私>なのだとすると。サイモン教授のように脳だけを保存することができても以前の人格が残されるという保障はないことになる。

B級小説でアドルフ・ヒットラーの脳が保存されていてそのヒットラーの復活させ、第三帝国の再興をたくらむ組織がある…というのがよくあるが、<脳だけ保存されていたヒットラー>はかってのヒットラーとは別人格になっている可能性があることになる(笑)


何年か前に、たまたま『Newton』誌で進化について書かれた一節を読んでいた時に気が付いたことがある。脊椎というのは脳の尻尾のように錯覚されているが、実は脊椎の末端が肥大し、発達したのが脳だということである。

脊椎が発達する以前の生物というのは腸を中心として消化器官だけで生きていた。
ホヤやイソギンチャクのように腸だけの存在を経て、餌を摂取したり、外界を識別したりするためのセンサーとしての神経系が発達し、やがて脊椎と脳の発達に至る。

「意識の前に内臓ありき」なのである。そして内臓にかかわる活動や感覚は意識の根源であるともいえる。


ずーっと頭に引っかかっていたことがあった。

それは偉大な鍼灸治療家の澤田健の残した言葉に「内臓は発電所で、脳は変電所です」という一節である。※私にはこの言葉があまりに奇異に感じられて長い間、理解できなかったのである。

 だが発生学的に<内臓→脳>という機序があるということが理解できると、この言葉の意味することが上手く説明できるのではないかという気がするのである。


 脳が意識の中心であると思い込んでいると、脊椎は骨格を支える支柱であり、内臓は養分を摂取したり貯蔵するための器官でしかないと捉えてしまう。ところが発生や進化の視点から見直すと内臓と脳が深くつながっていることになる。

 このアイディアが浮かんだときはかなり嬉しかったが、後になって同じようなことを書いている人が何人もいることが分かってちょっとがっかりした…

 このことは実はいろいろな問題につながっているのだが、長くなりそうなので続きはまたの機会に書きたい。

 ※代田文誌「鍼灸真髄」(医道の日本社

鍼灸真髄

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