不幸せの後ろにあるもの
朝から雪である。法事に出かけようとすると強い吹雪になった。
法事の後、車に施主のお年寄りを乗せて兼務しているK寺のそばにあるお墓参りへ出かけた。本来なら法事に参加した全員でお墓参りするのだが、雪が降っていたので私と施主の家族3名が代表で行くことになった。
K寺に至る山道は車一台分の幅しかない山道である。
新雪は滑りやすく、帰り道でハンドルが効かなくなって、道路から転落しそうになった。本当に焦りました…。雪の日の山寺はやっぱり危険である。
美輪明宏さんの本にこんなことが書いてあった。
若い頃は貧乏のどん底でお風呂も満足に入れなかった。だから湯船につかって手足を伸ばしているとしみじみ幸せだと感じる…
この一節を読んで「幸せのハードル」という言葉を思い出した。
幸せのハードルが低ければ低いほど幸せだと感じられるという。そんなことがある本に書かれてあったのだ。
私も一人暮らしをしていた頃はお風呂もガス湯沸かし器も付いていないような安アパートに暮らしていたので、真冬に冷たい水で洗い物をするのが苦痛だった。今は毎日お風呂に入れるのも幸せだと感じるし、冬になって暖かいお湯で食器を洗える今の生活は楽しいと感じることがある。食後、楽しそうに食器を洗っている私を見て家族が不思議そうに見ていることがある。
幸せとか不幸せに絶対的なものが無いとは断定できないが、幸せとか不幸せを決めるのはやはりその人のもつ価値観、経験などが随分と大きく関わってくるように思う。
いつの間にかトラウマとかコンプレックスという言葉を私達はよく使うようになった。特にトラウマという言葉は実に頻繁に使われる。
このトラウマという表現は過去にあった出来事を絶対的な不幸だと感じ、そこから自分は被害者であり、可哀想であるという結論を見出している…そんな表現ではないかと感じる。
この言葉を使っているうちに自分は被害者であるという考え方や自分の人生観がどんどん明確に、揺るぎなくなってなっていくように感じる。もちろんこの世には悲惨としかいいようのない体験をされた方が実際におられるのも事実だが、最近このトラウマという言葉を聞くと、何か違和感を覚えてしまうのである。
美輪明宏さんは貧乏のどん底を経験されたが、それがトラウマとは感じておられないだろう。幸せになるためにはトラウマという表現を使わないことは大切なのではないかと思ったりする。
幸せというのはひょっとすると不幸せのすぐ後ろ側に隠れているのではないかと思うことがあるからだ。だが自分の体験をトラウマと言ってしまうと、ただそこにあるのは不幸だけになってしまう…私はそんな感覚でこのトラウマという言葉を捕らえている。
自分の体験をどのような言葉で表現するかというのは案外とても大切なのではないかと考えている。