犀の角のように


朝はまだまだ寒いが、門前の小川に午前の太陽が差しているのを見るとやはり春だと感じる。
小さな川だが護岸工事をする前はもっと風情があったのだろう。

身重の妻は現在15週目。
一時期つわりがひどくて本当につらそうだったが、安定期にはいったようで一安心である。



昨日、お坊さん専門誌「寺門興隆」(興山社)が届いた。

本堂が火事で焼失して火災共済金が下りたのに住職がこのお金を横領してフェラーリを買ってしまったとか、住職が認知症なのにつけこんでお寺に霊感商法の石碑を200体も建てられてしまったとか、相変わらずのお寺ネタが続々。

インド哲学の大家宮元啓一氏の「ブッダの本当のことばをあるがままに説く講座」は毎回楽しみにしているが、今回は有名な「犀の角」の一説である。


子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹がお互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまとわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。


仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

中村元ブッダのことばースッタニパータ」(岩波文庫



私達は人間関係無しには生きてゆけない。
一人でいることは寂しいものだし、家族がいれば家族に縛られる。
私達の心は常に人間関係の中で揺れ動き、執着し続けていて最も大切なものに心を向ける余裕が無いのかもしれない。

夏には子供が生まれる予定である。
「子煩悩」という言葉があるが、子供とは仏道を歩む者には煩悩のもとでしかないのだろうか。
もっとも自分の子供ひとり育てられなくて悟りや修行について偉そうに語る資格はないだろう。
喜怒哀楽を断じてクールになってみても、それは<クール>というある種の感情のうちにいることでしかない。

日常にあって自然な喜怒哀楽を受け止め、それらに溺れることはない…犀の津になるのは私達凡夫には難しいことである。