ある中学生の死〜小石とダイヤモンド

万葉研究で名高い犬養孝先生の講義を録音したテープを聴く機会があった。

犬養孝氏の講義は平明であり、含蓄があり、音楽性を持ち、素晴らしい内容だった。

講義では万葉集の有名な東歌が取り上げられていた。

信濃なる 千曲の川の 細石(さざれし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ」

    千曲川の河原にある 小石だって
    貴方が触れたり 踏んだ石ならば それは私にとっては ダイヤモンド。


上古の人々にとって魂というのはどんどん他のものに移り、広がっていくものという感性があった。
愛しい人の踏んだ石をまるでその方の分身であるかのように大切にしたというのは素敵である。
 貴方の踏んだ石は川原の小石も玉(宝玉、ダイヤモンド)です…こんなこと一度言われてみたい(笑)

 人間の心や感性というものはダイヤモンドを小石に変えてしまう力も持つのである。

 
 
 最近、若者の自殺があまりにも多い。

 多くの家族や友人に愛され、支えられていても、眼の前の挫折をきっかけに死を選んでしまう若者が後を絶たない。なんとも残念なことだ。

 今日の京都新聞にやるせない、悲しいニュースが載っていた。

 いじめにあって自殺した中学生の遺書の中にこんな一節があったそうである。

      ほかにもいじめをうけている生徒がいる。おれが幽霊になって守ってやる…


 日本人の自殺が増加している背景にあるのは人間が死ねばそれで終わりであるという物質的な生命観が蔓延していることも一因ではないかと思う。

 多くの宗教では自殺を固く戒めている。
 人間の肉体が死を迎えても、その意識、その心、或いは魂というものの存在が永続する。日本ではこのことをきちんと知る機会がほとんど無い。

 先日ある法事の席でこんな質問を受けた。

 「事故や自殺といった形で親族が亡くなった方にどのように言葉をかけてあげたらよいか」という質問である。

 これはとても難しい質問である。
 そうした遺族に方に対しては、まず一緒にその悲しみを分かち合うしかできないのではないかと思う。
 心から深い悲しみを体験して、もしかしたらその先に何か伝えてあげられることがあるかもしれないと思う。

 そして自殺や事故なので親しい人が亡くなってもその意識や魂は永続するという考えは遺族にとってひとつの救いや慰めになる可能性があるのではないかと思う。人間を物質的な存在とだけ考えるなら失われた命は永遠に戻ってこないのである。

 若者が自ら死を選ぶだけでなく、他者への恨みや人生へ悲しみに満ちた心で死んでいくというのはやりきれないことである。人生でどんなに辛いことが起きても、その未来にはダイヤモンドも遥かに及ばない輝きがあることを誰かが教えてあげられるような教育が必要なのだろう。

 わたしにとってのひとつの救いは自殺した中学生が友人を守ってやりたいという優しい心を持っていたことである。私にはそのことが救いに思える。

 亡くなった中学生の冥福を祈りたい。
 そして残された家族や友人が故人をきちんと供養することによってその魂が救われることを是非知って頂いていたらと願わずにはいられない。合掌