三宝の声
昨日、引用した空海の詩について質問を頂いたので、大意を掲げておく。
この詩の訳は難しい。自分の中でも大意を伝えられているとは思えない。
「三宝」はブッポウソウ(仏法僧)という鳥の声であると同時にもっと宗教的な含意を感じる。
「雲水」も「雲と水」なのかそれとも僧侶=空海なのか…
「後夜に仏法僧の鳥を聞く」空海:「性霊集巻10」
閑林に独坐す 草堂の暁
三宝の声 一鳥に聞く
一鳥声有り 人心あり
声心雲水ともに了了
ごやにぶっぽうそうのとりをきく
かんりんにどくざす そうどうのあかつき
さんぽうのこえ いっちょうにきく
いっちょうこえあり ひとこころあり
せいしんうんすい ともにりょうりょう
【大意】
高野山の夜明けの刻。
静かな山林の草堂に独り座し、夜明けを迎える。
三宝の理(ことわり)を一羽の鳥の声に重ねて聞く
鳥に声があるように、人には心がある
鳥の声も、人の心も、雲も、水も、それら全ては純粋で光り輝くものである
空海という方は日本史を代表する能筆家であるが、同時に詩文の大家でもあった。
今日の我々が味読するに足るものである。
素人の管見だが、空海の詩文には<音>や<響き>が取り上げれることが多いように思う。
空海の耳に響いた「三宝の声」とはどのようなものだったのだろうか。
偉大な宗教家が何を感じ、何を伝えようとしたのか、到底答えを得られそうにない。
だが、私達が何かを感じようと心を廻らせることそのものに意味があるのかもしれない。