「いろは歌」の奇跡
色は匂へど散りぬるを
我が世誰ぞ常ならむ
有為の奥山今日越えて
浅き夢見じ酔ひもせず
最近、法事の時に「いろは歌」を歌うことがある。
「いろは歌」は真言宗系の僧侶なら誰でも知っている宗歌である。
この「いろは歌」は御詠歌を専門に修めた方が歌うと誠に綺麗だが、私は本山で簡単に習っただけなのでかなりいい加減である…
それでもこの「いろは歌」を歌うといろいろと反響がある。
お経をどのように読んでもそうした反応が返ってこないので面白い。
この歌にはやはり何か人の心の琴線に触れるものがあるのだろう。そのことをとても興味深く感じる。
真言宗では「般若心経」「理趣経」といったお経を読経することが多いが、これらのお経には透徹した<理>の存在が説かれていると思う。それは誠に素晴らしいいし、それを聴く者に荘厳な感じを与えるのも事実である。
だがこの「いろは歌」は<理>ではなく<情>に訴える強い力を持っているのではないかと思う。
この「いろは歌」というのは不思議な存在である。
47個のかなを重複しないように配列して4行詩の形式をとっているのだが、これが人間業とは思えないほどよくできている。
英語でも26文字のアルファベットを並べ替えて文章にしたものを読んだことがあるが、随分稚拙な印象を受けた。
「いろは歌」はアルファベットの2倍近い文字を配列して、その内容は諸行の無常を説くきわめて高度な内容である。このことがまず驚きである。
しかも、この4行は既に知られている「雪山偈」になぞらえられているのである。
諸行無常 (全ての生起するものは無常である)
是正滅法 (これは生じては滅びる性質のものである)
生滅滅己 (生死の中に己も滅する)
寂滅為楽 (それらの静寂なることは安楽なのである)
47文字のかなを重複せずに使って文章を作るということがまず至難なのに、既に存在する経典の文意に沿って作るというのは殆ど不可能のように思われるのである。
最初の一句を見てみる。
色は匂へど散りぬるを
この場合の「匂う」は香りではなく色が映える様をいう。
鮮やかに色映えた花も散ってしまう
だが仏事でこの歌を聴くと、花が散ることから連想されるのはまず亡くなった故人の姿である。
「匂う」という言葉もおそらく原義の「映える」ではなく嗅覚的な意味に捉えられるのだが、そのように解釈されても原義は損なわれない。
我が世誰ぞ常ならむ
意訳すれば
この世で誰が不変であろうか
この1句と2句は結びついている。
1句で花の散る様、2句でその背後にある無常の理を説いているのである。
そして聞く側にとってもやはりここで世の無常と死が誰にとっても必然であることを痛切に感じるのである。花が散るという誠に美しいイメージの中で無常が説かれるのである。
( 以下続く)
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ぶろぐ坊 九拝
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