「いろは歌」の奇跡 (続)
さて、前回の続きである。
有為の奥山今日越えて
3句目は少し分かりにくい。
「有為」とは仏教用語では「無為」の反対である。
「無為」は常なるものであるのに対して常ならざるものである。
「有為転変」という表現があるように有為の世界は変化し、止まることがあない。それは迷いの世界でもある。
有為の奥山とはその変わる続ける姿に囚われる迷いの世界であり、それを超えて常なる世界にいたることを指している。
実はもうひとつポイントがある。古来、人間は死を旅路として捉えてきた。
<奥山を〜越える>という表現から私達がまず連想するのは文字通り死出の旅路に発った故人が山路を越えて行く寂しく悲しい姿ではないかと思う。
実際の歌意とはズレがあるのだが、故人の死とこの「いろは歌」の世界とが不思議とオーバーラップしているのである。この点も興味深い。
浅き夢見じ酔ひもせず
「浅い夢をみない、酔いもしない」というのが4句目の意味である。
3句目が理解されると、4句目は容易に理解できる。
<浅い夢>や<(酒に)酔う>とは変わり続ける囚われの世界、迷いの世界である。
これらを超えることは、即ち、第3句の<有為の奥山を越える>ことと殆ど同じ意味なのである。
いろは歌の旋律は昭和に入ってから公募されたものだが、その旋律は哀切であると同時にそれを越える深い世界を示唆する素晴らしいものである。これらの歌詞と旋律が結びついたのが今日ある「いろは歌」である。
いろは歌の作者は弘法大師という伝説が長く信じられてきたが、学術的には認められていない。
しかし作者が不詳であるとしてもその価値は少しも損なわれるものではない。
言語作品としてもその技巧は超絶的であると同時に、その歌意に込められた深い無常観、そして哀切たる旋律と、不思議と故人の死を悼むイメージを喚起する力と相まって、私達に仏教的な死の捉え方を示してくれているように思う。
<故人の死を憶い、深く涙せよ、そしてその情をも越えてゆけ>というメッセージを感じるのである。
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