人生の宝物




昨日、地元のお寺の地蔵盆※の法要に参加させて頂いた。

それを以って今年のお盆の行事は全て終了である。
帰ったら急に力が抜けてばったりと布団へ倒れこんだ。久々にブログの更新をお休みしました。

子供の頃は地蔵盆がとても楽しみだったが(「地蔵盆が楽しみ」といっても実はオヤツが目当てなのだが)、最近は子供の数もめっきり減って地蔵盆がお年寄りの行事になりつつある地域も多いそうである。

お地蔵様へのお供えも昔は子供向けのお菓子が主だったが、子供が居なくなって砂糖、醤油、マヨネーズ、挙句はトイレットペーパー、洗剤がお供えされる地域があるとは本日の京都新聞地方版の記事である。

食品はまだいいがトイレットペーパーとか洗剤は少し趣旨が違う気がするのだが、いかがなものか…

昨日の地蔵盆は大きなテントが張られて、ビール、焼きそば、焼肉、そうめんなどが振舞われた。
参加者も70人以上おられただろうか。あたりは一面の田園地帯で参加者も農家の方が多かったようである。アメリカ映画に出てくるカントリー調のパーティを思わせる雰囲気がとても素敵だった。お寺の行事も本当に様々である。


今日はお気に入りのブログをいくつかチェックしていて感動的な記事を見つけた。
地元に姉妹で営まれているとても素敵なお茶処がありそこの女将さん(←まだお若いです)のブログを読んでいたら、とてもイイお話だったのである。

女将さんのお母様が早くに亡くなった後、お嬢様育ちの祖母様が一生懸命、お孫さんである女将さんを育てられたというお話である。

【茶屋 流々亭 女将ブログ】http://ameblo.jp/rurutei/entry-10328101801.html

祖母様が真っ黒に日焼けして一生懸命洗濯物を干される姿が目に浮かぶようである。子育てというのは体力と気力が勝負になることもあるので、祖母様は随分苦労されたのではないかと推察される。祖母様が亡くなった後も、その愛情を感じとれる女将様も立派である。

無条件に、無私に愛して貰った記憶というのは本当に人生の宝物だな…と感じいった。

私自身は母方の祖父にとても可愛がられた。両親も人並みの愛情深さを備えていたといっていい。そういう意味では幸せ者である。

親(或いは親代わりの存在)から受ける愛情の多寡はその人の人間観や人生観を大きく形づくるのではないかと思う。これは私達の心の在り方や人生にとって決定的な意味を持つことがある。

ただ困ったことに親が愛情を注いでもそのことを感じとれなかったり、普段は愛情深いはずの親が発した一言や、あるいは些細な行動から<自分は愛されなかった>という人生観に陥ってしまうこともある。

こういった人は意外に多いものである。そういう時はどうしたらいいのだろうか?

少なくとも親もまた自分と同じ<普通の男>、<普通の女>であり、迷ったり、時に間違ったりしながらも一生懸命自分を育ててくれたことに気がつくことが大切である。
(内観法などの心理療法が有効な理由のひとつはここにあるのだろう。)

親がまず十分に愛情深く、祖父母や親族に可愛がられ、地域の人たちにも大切に見守られる…そんな環境が少しづつなくなりつつある。

その意味でも地蔵盆やお寺の行事で子供達が地域の大人たちと接することは案外大切なことなのかもしれないし、お寺の大切な役割もそこにあるのかもしれないと思ったりするのである。



※ 地蔵菩薩は大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩する人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。地蔵菩薩は子供の守護神としても信仰されており、子供がよろこぶお菓子が供えられたり、地蔵盆が営まれるのもそのためである。
 道端でよくお地蔵様を見かけるが、これは地蔵菩薩の信仰と道祖神がひとつになった結果であるらしい。


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