<心の傷>との出合い

 時々、自分の心の傷跡に触れてみることがある。そして心というのは不思議なものだな…といつも思う。

 僅か数時間前のことも思いだせないのに、数十年前に言われた一言が未だに心に残っていることがある。

 幼稚園の送迎バスに乗った時、隣に座った女の子が掌に小さな虫を載せて見せてくれた。


私「…これはマル虫だね」
女の子「違うっ!これはダンゴ虫っ!」

 その時、激しく自分を否定された(と私には感じられた)そのことが今でも私には忘れられないのである。その時の私はまるで金槌で頭を殴られたようなショックを受けた。


 相手の顔はかすかにしか想い出せないが、近所に住んでいた女の子だった。(今、この文章を書きながら、私はその女の子が好きだったのではないか…と気が付いた。)


 私自身の心を粒(つぶ)さにみてみると<相手に拒絶されること>がとても苦手である。

 そして、ついつい相手に嫌われまいと振舞ってしまうのである。或いは断りたいことも断れないままに引き受けてしまうことが多い。
 その原体験がこの時の会話にあるらしいのである。自分でも信じられないことだが、どうもそのように感じる。


 第三者にとって取るに足りない、些細なことがいつまでも心に残っているというのはどういうことなのだろうか。
 幼児期から思春期にかけての心は未完成である分、繊細であると同時に、とても傷つきやすい。
 この時期の心の傷は長く心に残り、その人の人生の多くを決定付けることが多い。CDの盤面が傷ついて、いつも同じところで音が飛ぶようなものと考えれば理解しやすいかもしれない。


 子供の時イジメに遭って、自信喪失に陥る人もいれば、逆に相手に対して過剰に攻撃的になる人もいる。両者は一見、別の人格に見えるが、心の傷を起点として人生を決定付けている点では全く同じなのである。


 大半の人間は心の傷を刺激するような場面に出会うと不安になったり、怒りがこみ上げたり、悲しくなったりといった感情の起伏に心をゆだねてしまっているのである。そうしてその傷を乗り越えることなく、人生を終えていく。

 そうした心の傷はもっと別のものに昇華できるのではないか、その鍵は感情に身を任せるのではなく、自分の心を尋ね、心の傷を捉えなおす体験が必要なのではないだろうかと思う。

 この仕事に就いているといろんな方の相談を受けることがあるが、その方の苦悩の奥にある<心の傷>を感じることがある。その度に人々が心の傷を乗り越え、全く新しい人生に出うことができれば、それはどんなに素晴らしいことだろうかといつも思うのである。




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