白洲正子「器つれづれ」
車で走っていて、眼の前に田園地帯が開けると、視界が黄色の稲穂で覆われてなんとも豊かな気持ちになる。
稲刈りが始まっている。今年の作柄はやや不良と言われるが、7月の日照時間が極端に短かったので不作が心配である。
数日前、車を走らせていて、ふと強い感情が湧いた。
自分のエゴであり、未熟さなのだが、その強い感情が沸き立ちそうになったときに道端の畑に赤い鶏頭が10本余り咲いているのが眼に入った、なぜかその強い感情が、ケイトウの赤い色に一瞬のうちに溶かされていくような気がした。ケイトウが眼に入ったのは1秒にも満たないはずなのに、一体どうしたのか少し不思議に思った。
- 作者: 白洲正子,藤森武
- 出版社/メーカー: 世界文化社
- 発売日: 1999/07/01
- メディア: 単行本
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先日、中古書店で久しぶりに白洲正子の本を見つけて手にとった。
器にはあまり興味がないはずなのだが、掲載されている写真がどれも美しくて、見入ってしまった。久しぶりの衝動買いである。
皿、鉢、椀、猪口、酒器、茶器、花器、文具…
白洲正子が普段使った器150余りの写真と文章が収められている。
白洲正子という人の美意識や審美眼には魅力を感じる。
美しい器も常に生活の中で愛用され、論じられる。美しさが具体的なのである。
活字を読むのが面倒なので、最初から写真だけを飽きずに眺めている。
自分自身でこういった器を蔵したいという気持ちは無いが、そうした生活にある種の憧れがある。今は眼の前の仕事をこなすのが精一杯なのだ。
つれづれに器を眺める生活というのは自分にはほど遠い気がする。
今はこの本を飽きずに眺めている。
本の帯にはこんな言葉が書かれている。
私と道具
どんなに上等なものでも、
しまっておいたら
必ず顔色が悪くなる。
死物と化すのである。私は毎日そばに置いて
荒っぽく使っている。
時には瑕がついたり、はげたりするが、
道具はそこまでつき合わないと、
自分の物にはなってくれない。
道具は物をいわない。
だが、美しくなることで、こんなに育ちましたと、
嬉しそうな顔をする。
その瞬間、私は感動する。
白洲正子
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