流れる雲のように
本日は兼務している山寺で留守番の日である。
珍しいほどの秋晴れである。
このお寺はお参りの人も殆ど無いので心がぽっかりと空くような時間が流れる。
お坊さんになる前はこの仕事にひとつのイメージを抱いていた。山の上で暮らして畑を耕し、雨の日は本を読む。そして時々、お葬式や法事に出かけていく…そんな生活を想像していたのである。実際の生活というのは世の中のことにどっぷりと浸からざるを得ないものである。
人間関係やお金や対面や義理や世間体といったものの中で自分が右往左往している気がして、随分と心の落ち着かない生活だなあと思わずにはいられないことがある。だが時々こうして力の抜けた時間を過ごすと、心がゆっくりと回復してくるのを感じる。
全くの語呂合わせだが「仏」とは「解け」だと感じることがある。
固く結ばれていたものを解(ほど)いて下さるのが仏様である。
空を見上げると雲がゆっくり流れていた。
空が嫌いという人はあまりいないだろう。
空を心地よいと思う感覚は宗教の原形質のようなものにつながっているのではないかと思う。
私の場合は少し逃避が入っているかもしれないが(笑)時々、逃避したっていいではないか…
ここ数日は加島祥三の「タオ 老子」(筑摩書房)を寝る前に拾い読みする。
やはり心がぽっかりと力が抜ける感覚が心地よい。
美しいと汚いは、
別にあるんじゃなあない。
美しいものは、汚いものがあるから美しいと呼ばれるんだ。
一は
数から言えば一番小さな数だ。
でもね、一は、また、
すべての数のはじまりだし、
すべての数を含んだ数なんだ。
世間の人は
頭を使いすぎる。
頭を使うことを止めて
自分の内側のバランスをとってごらん
すると心配や憂鬱がどんどん薄らぐ
いいかね、
マイナスにみえるものは、そのなかに
大きなプラスを妊んでいるんだよ
タオの働きは大きすぎて、
動きはにぶくみえるががね、
使うとなったら、
いくら使っても使い尽くせないんだ。
a href="http://www.blogmura.com/" >
にほんブログ村←いつもありがとうございます!老子様にあこがれる副住職への応援クリックをポチッとおねがいします(^人^)