幽斎の庭
【舞鶴ご近所日記】
本日は爽やかな秋晴れ。
今日は庫裏の前にある庭園の百日紅の剪定を行う。
百日紅の剪定は落葉期が望ましいと園芸書には書いてあるのだが、これから忙しくなるので早めに終わらせることにした。結構日差しが強く、麦藁帽をかぶる。
一日で5本の剪定が終了。剪定した枝葉を山に捨てに行く頃にはすっかり日が暮れていた。一日働いた後の晩ご飯は格別に美味しかった。
この庭園は寺伝では細川幽斎が作庭したと伝えられている。秋になると周囲のもみじの落ち葉が降り積もってなかなか美しい。
幽斎は田辺城という居城を構え、この付近の寺院にしばしば足を運んだとされているので幽斎が作庭したというのも多分史実だろう。
田辺城は現存せず城門のみ復元されている。
復元された城門を見るとそんなに大きな城ではなかったのだろうと考えられる。
だが、面白いと思うのはこの細川幽斎が関が原の戦いに関わって少なからぬ働きをしたことである。
幽斎は徳川方について僅か500の手勢で田辺城に篭城した。
攻め手は15000の兵である。城攻めには3倍の兵が必要といわれたりするが、30倍の敵に攻められたわけであるから状況は絶望的である。
ところが細川幽斎は文武両道の武将であり、中でも古今伝授の継承者とされていた。
(敵方にも幽斎を師と仰ぐ武将が少なからずおり、攻め手の戦意は決して高くなかったようである。)
篭城戦がいよいよ佳境に入り、幽斎は討ち死にするかに見えたが、伝授の途絶えることを惜しんだ朝廷から和議の勅命が下り攻め手は兵を引くことになった。
幽斎を一気に攻め滅ぼし、その余勢を以って関が原の戦いに加わるはずだった15000の将兵は関が原の戦いに間に合わなかったのである。
結果的に幽斎は僅か500の手勢で15000の大軍を足止めしてしまったわけである。
もしこの15000の兵が関が原の戦いに参加していたら状況が変わっていた可能性は多いにあるのではないかと思う。
関が原の戦いで動員された軍勢の数は諸説あるが、ある資料には徳川方10万に対し石田方8万とある。
肝心の関が原の戦いで15000もの兵が間に合わなかったというのは石田方にとって大きな痛手だったのではないかと思われる。またそうした誤算が生まれたことによって生じる石田方の動揺も小さくなかったはずである。
そして面白いのは幽斎が楠正成のようなゲリラ戦のエキスパートだったというのではなく、古今伝授という文化のエキスパートだったということである。
古今伝授という王朝文化の残照が関が原の戦いという歴史のターニングポイントの帰趨に大きくかかわったというのも興味深いことではないだろうか。
この話はなかなか面白いのでいずれもう少し詳しく調べてみたいと思っている。
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