もし世界が変えられるなら 

本山で修行僧をしていた頃はテレビ、ラジオはもちろん新聞も読めない。

音楽を聴くことも一切なかった。私達の世代は音楽を聴くことが日常生活の一部になっているから、音楽の無い生活というのもなかなか辛いものがある。その結果どうなるかというと…気がつくと声明(仏教音楽)を口ずさんでいたりするわけである。

ある日、本山の伽藍で大規模なコンサートが開かれることになった。その音響設備のテストの為に一日中、洋楽が流されていたことがある。

曲はエリック・クラプトンの名曲“Change the world”※だった。この曲が広い本山の伽藍に一日中流れていたのである。私は普段は洋楽を聴かないが、久しぶりに聞いた音楽が何とも懐かしく、嬉しく聞き惚れたことを思い出す。

http://www.fujiura.com/fgod/songs/changetheworld.htm

もし世界が変えられるなら
君の宇宙の光になろう
君にも 僕の愛が素敵なものだとわかるさ
世界が変えられるなら



それにしても甘〜い歌詞ですね(笑)…
自販機の甘酒(←赤い缶のヤツ)みたいです。


話はちょっと飛躍しますが、<世界を変える>とは人間がその想いを変えるということなのではないかという気がしている。
「もし世界が変えられるなら」ではなく「世界は変えられる」のだと思いたい。


私は自分の想いの方向性や指向をチェンジすることで、世界そのものがチェンジすることにつながるのではないかと思っている。


一番大きなポイントは<嫌なできごと>との葛藤ではないかと思う。

私達は嫌な体験をするとそのことにずーっと心がとらわれてしまう。
そのことを思い出すとムカムカするとか、ずーんと心が重くなってしまうとか、悲しくて悲しくてやりきれなくなるとかである。

そんな心の葛藤が誰にもあるのではないだろうか。特に幼児期から思春期にかけての不快な体験はとても大きな意味を持っている。
私たちは心にある不快なこと、恐ろしいこと、嫌なこととの葛藤に膨大なエネルギーを費やしてしまっているのではないだろうか。


神仏に祈る(拝む)ということのひとつの意味は、心が葛藤に執着して、離れなくなっているときに、全く違う何かに心を強く向けることでその執着を打ち破るという意味を持つからである。

神仏に心を向けることで、嫌なこととの関係に費やされている心のエネルギーを断ち切るということである。

私達が心の葛藤に消費している心のエネルギーをもっと他のことに使うことができたら人生は大飛躍するのではないだろうか?
葛藤そのものに終止符を打つことができたら人生は大激変するのではないだろうか?

多分、それが成し遂げられたら、嫌な出来事が実は自分を飛躍させてくれたことに気がつくに違いない

なぜ苦しみが存在するのか?

その問いに答えることができるのは仏教でいうところの智慧というものではないかと思っている。そんな仏教を伝えることができるお坊さんになりたいと思っているのだが、なかなか上手くいかないのである…

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