パソコン・ソフトで戒名を作るお坊さんの話

【山寺の本棚】

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)




島田裕巳「葬式は、要らない」(幻冬社)にこんなことが書いてあった。



僧侶の場合でも、実は、戒名のつけ方について教えられているわけではない。それでも、すでに述べたように、戒名が仏教の教えにも、宗派の教えにも結びつかないからである。
そのため、僧侶向けに戒名のつけ方のマニュアルが刊行されている。そうした本では、どういった字を選べばいいのかが解説されている。あるいは、戒名をつけるためのコンピューター・ソフトも開発され、販売されている。
コンピューターが選んだ戒名を授けられるというのであれば、そのありがたみは一気に薄れる。それなら戒名は自前でつけた方はいいと考える人も少なくないだろう。



少し前に出た「お坊さんが困る仏教の話」にもそんなことが書いてあった。
お坊さんについて批判的に書いた本はよく売れるらしく、この本もかなりの売り上げだったと聞く。

お坊さんが困る仏教の話 (新潮新書)

お坊さんが困る仏教の話 (新潮新書)



人が亡くなると菩提寺に連絡が取られるが、お葬式は亡日の翌々日であることが多い。早ければ連絡のあった翌日がお葬式である。

この間に菩提寺は枕経というお経を上げに行き、遺族と葬儀に打ち合わせを行う。当然、お坊さんは自分の様々な用件は全部キャンセルする。
戒名は葬儀までに考えなければならない。葬儀の準備というのは地域によって様々だが、通常は49日までの塔婆、位牌を書く。さらに自宅の葬儀の場合は「書き物」といって紙製の幡(はた)なども筆で書く。これもかなりの分量である。故人の遺徳を讃え、仏道に帰依することを示す諷誦文(ふじゅもん)というものも書かなければならない。その合間を縫って戒名を考えるのである。

手元に戒名専用の大きな字典がある。私はこれを参考にして戒名を付けている。戒名は故人の俗名から1文字取るのが通例である。俗名のどの文字を選ぶかということから始まって、故人の人柄や職業、趣味、嗜好、亡くなった季節、故人への思いなどなどを勘案してつけるのである。夫婦の場合は一字揃えることもある。字画の多い文字と少ない文字のバランスを考えたり、使われた文字どうしが和歌の縁語のように配置することもある。戒名を適当に付けることは簡単だが、考え出したらキリがないのである。

冒頭の戒名をパソコンのソフトでつけるというのは誤解ではないかと思う。

「戒名を作成するソフト」のようなものがあるのではなくて戒名の参考にする字典がデジタル化されたもののことではないかと思われる。実際、私が使っている字典は重さが3キロもあって重くて使いにくい。
お寺には膨大なダイレクトメールが来るが私はまだ<戒名作成ソフト>の広告は見たことがない。将来はできるかもしれないが、そんなものができたからといってお坊さんが全員が使うわけではない。また僧侶向けに戒名に付け方を解く本はあるが、マニュアルというほど簡単なものはまだ見たことはない。島田氏はどうしてもお坊さんが楽して簡単に戒名を付けているといいたいらしいが少々拙速である。

故人といっても頻繁にお会いしている方もあれば、施設に入られていてお会いする機会の無い方もいる。だが、私なりに責任や故人への思いを持って戒名を付ける。恐らく大半のお坊さんはそうだろう。

戒名料というものが存在しないお寺も多い。戒名料が存在しないのであれば、戒名はタダなのかというとそうではなくて葬儀で頂く布施に含まれていると考えるべきである。

「葬式は、要らない」には頻繁に「贅沢」という言葉が出てくる。



葬式にいくら費用をかけても、何かが残るわけではない。祭壇はすぐに壊され、棺も、いくら高価な材料を使っても、火葬されれば、ただの灰になる。飲食もそれを楽しめるわけではないし、香典返しもカタログから商品を選ぶシステムが広がっているが、果たしてそれが必要なのか、疑問を感じることも少なくない。

にもかかわらず通夜と葬儀・告別式だけのために、一般の人でも200万円を超える費用をかける。それが大企業の経営者となれば相当の額を費やす。葬式は決して喜ばしい場ではない。その点で、贅沢すべき機会ではないはずである。だが現実には葬式に金をかけ贅沢する。



葬儀の布施が高いのは葬儀を機として菩提寺にまとまった金額を財施するというのが趣旨である。
葬祭業者に払う費用と菩提寺への布施を一括して葬儀費用と考えそれを高い=贅沢というのはいかがなものかと思う。そもそも比較の対象がキリスト教の葬儀では本来比較にならないはずである。


そもそもお寺に高額の財施をするのは贅沢なのだろうか?
故人なり遺族がそこに意味を見出すならそれは自由というものである。
葬儀に金をかけるのが贅沢なら結婚式に金をかけるのも贅沢ということになる。
結婚式は贅沢なのだろうか?
各種の祭りはどうだろうか?

冠婚葬祭を始めとする行事に時間と労力とお金を割くのは日本の文化のなかに根付いている。それらは大半が贅沢ということになる。


お寺は大変な仕事だといつも思う。遣り甲斐はあるが楽して儲かるという仕事ではない。
そもそもお寺がそんなに美味しい職業なら誰もが僧侶になりたがるはずである(笑)だが実際にはお寺というのは後継者難であることが多い。お寺の息子が後を継ぐことを拒否してお寺を出るという話はよくあることである。そもそもウチのお寺も6年前まで私が後を継ぐことは絶望視されていたのである(大笑)住職も檀家さんもかなり諦めモードだったそうである…

仮に時間給20万円の仕事があっても、仕事が1年に1時間しかなければ年収は20万円である。葬儀のお布施は高額だが葬儀の回数は当然ながら不定期である。数年葬儀がないこともざらある。またお寺というのは本堂、庫裏を始め、多きくて古い建物を擁していて
その補修や維持には莫大な金額が必要である。建て替えとなるとなおさらである。そういった伽藍の維持は間違いなくお寺の経営を圧迫している。僧侶以外の仕事で生計を立てながらお坊さんをしておられる方は大変に多いのである。


『戒名は高い→だから自分で付ける』

というのもかなり可笑しな話ではないだろうか?

戒名は葬儀とそれにかかわる宗儀の中で生まれるものである。
それぞれの宗派の規定する正式な資格を持たない人間が戒名を付けたといってもそれは納得できない。それはあくまで自分で付けた戒名風のものである。


京都新聞に「信ふたたび」という特集が載っていて、本日(平成22年3月3日)の記事はとても感心した。

京都市内にある蓮久寺の三木大雲住職という方の活動が紹介されていた。若者に仏教の教えを説き、各種の人生相談に乗られるのだという。


「お経って何?」。若者から聞かれると、こう答える「今風に言えば人生の『攻略本』。いかに幸せに生きていくか、が書かれている」。

がんと闘う若者がいた。「なぜ病気になったのか」と問われた。人が生まれてくる意味や生きる目的を一緒に考えた。「相談に乗るということは、その人の人生の半分を背負うこと」。覚悟を決めて彼を向き合った。

「観音様に救いを求めるのではなく、自分が観音様になる努力をしよう」

…立派な方じゃありませんか。

こういう方の活動を知ると仏教もまだまだ捨てたものではないし、自分ももっと頑張らねばと思うのである。


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