「葬式は、要らない」という島田先生の持論について

【山寺の本棚】



お坊さん専門誌「寺門興隆」(旧題「月刊 住職」)が届いたのでパラ読みしていると

俳人の宇多喜代子さんが「何かがおかしい」という一文を寄稿されていた。
一月某日「朝日新聞」の投書欄にこんなタイトルの記事が載っていたそうである

「読経中、携帯操る僧にあぜん」

自宅で母親の法要を営み、僧侶に読経してもらったら、2度も携帯のベルが鳴って、僧が読経しながらメールを返信した…というのが趣旨である。(1月13日付け朝日新聞

読経しながらメールの返信は考えられない。こういう人物は僧侶としては失格だろう。

但し、別の可能性がある。

雑誌の「読者の声」なるものはかなりの割合でライターが書いているのは周知の事実である。
新聞の投稿欄の記事を読んでいても、私は「これがほんとうに一般の方が投稿したものかな?」と感じるものがある。つまり特定の意図を持った人が創作した内容を実体験のように書いて送ってきている場合があるのではないかということである。特に朝日新聞は偏向した投書が多いので有名である(笑)
今回は事実だと思うが…

お坊さんというと<とにかく立派で有難い方>か<欲に溺れた生臭坊主>という両極端なイメージがある。
立派な方もそうでない人もいるが、仏教も僧侶もそれをとりまく環境や事情はとても複雑だということだけは確かである。

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

葬式は、要らない (幻冬舎新書)

巷で話題の島田裕巳「葬式は、要らない」には頻繁に「贅沢」という言葉が出てくる。

葬式は贅沢である これが、本書の基本的な考え方であり、メッセージである 15p


これが本書の書き出しでである。外にも…

葬式にいくら費用をかけても、何かが残るわけではない。祭壇はすぐに壊され、棺も、いくら高価な材料を使っても、火葬されれば、ただの灰になる。飲食もそれを楽しめるわけではないし、香典返しもカタログから商品を選ぶシステムが広がっているが、果たしてそれが必要なのか、疑問を感じることも少なくない。

にもかかわらず通夜と葬儀・告別式だけのために、一般の人でも200万円を超える費用をかける。それが大企業の経営者となれば相当の額を費やす。葬式は決して喜ばしい場ではない。その点で、贅沢すべき機会ではないはずである。だが現実には葬式に金をかけ贅沢する。30p



考えてみれば、寺の檀家であるというのは、それ自体ひどく贅沢なことである。
(中略)
寺における毎日の勤めのなかで、供養の対象になるのは檀家の先祖の霊だけで、そこに属していない人間の霊は対象にならない。その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できるということは特権的なことである。
その点で、檀家になるということは、平安貴族が味わっていたのに近い境遇にあることを意味する。昔なら上層階級だけが実現できたことを、一般庶民である私たちも経験できている。そう考えると、いかに檀家であるということが贅沢なものであるかが理解できるであろう。136p


ウチの檀家さんの中に「俺って平安貴族並みの贅沢してるなあ」と思ってくれている人がいるとは思えないのだが…

島田氏に言わせるとお墓を持つことも贅沢なのである


昔なら、墓が残るのは権力者だけだった。一般の庶民は、土葬され、その上に目印として墓標が立てられるだけで、立派な墓石を使った墓が残ることはなかった。
ところが、現在では、墓石を建てる慣習が広まり、墓さえ求めれば、それが半永久的に残る体制が作られている。それ自体、相当に贅沢なことである。121p


169pには<火葬することも贅沢である>という山折哲雄氏の意見も紹介されている。なぜ火葬が贅沢かというと火葬には石油やガスを使うので土葬すべきなのだという。

では島田氏は何をもって贅沢と言うのだろうか?

葬式が贅沢だというのは、法的にその実施が規定されていないからである。
葬式は、絶対必要なことではない。しかし私たちは死者が出れば葬式を行い、しかも相当な費用をかけて死者を弔っている。p26


だが一方でこんな記述もある

宇宙葬の費用は100万円である。決して安くはない。ロケットを使って宇宙に打ち上げるのだから、かなりの大事である。それでも一般の葬儀費用と比較するなら、はるかに安い、100万円で葬儀を出すとすると、今の標準からすれば、かなり質素なものになる。それからすると宇宙葬でさえ決して贅沢とはいえないのである。 49p


普通に読むとここでは値段の高いことが贅沢というふうにとれないだろうか?



実は本書では葬儀は贅沢だから要らないと言って、その<贅沢>の基準も定義もきちんと示されていないのである。これにはかなり唖然とする他ない。


法律に規定がないから贅沢である
値段が高いから贅沢である
式が終われば何ものこらないから贅沢である
昔の庶民に比べたら贅沢である

肝心の<贅沢>の根拠がバラバラなのである。


昔の庶民を引き合いに出して墓を持つことが贅沢というならロケットで遺骨を宇宙に打ち上げるなどというのは論外の贅沢ではないだろうか?

中世や近世に比べたら私たちは贅沢といっていいかもしれない。
だが私達の生活で中世や近世より贅沢でないものがあるだろうか?
クーラーもテレビも車も医療制度も年金もみんな贅沢である。
だがこの贅沢というのは<文明>とか<豊かさ>と考えられなくもないだろうか。

本書は島田氏の個人的な<贅沢観>に基づく葬式無用論であると言ったほうがいいかもしれない。
私は戦争中に作られた「贅沢は敵だ」という標語を思い出した(笑)

とにかく島田氏は贅沢が嫌いらしい。本書の内容はそれ以上でもそれ以下でもない。



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