浅き夢見し

先日、山寺にお参りに来られた女性とお話してとても感動した。

その方は私と同年代の方だったがお寺が好きでいろんなお寺を気ままに巡っておられるのだという。

その方は以前、電車の中で仏教の入門書を読んでとても感動されたことがあったそうである。
その本には<この世には何も存在しない>と書かれてあって、それを読んだときにその方は実は自分の抱えていた悩みそのものも存在しないということに心が震えるような感動をされたのだという。「電車の中から見た風景まで覚えています」とその方は言われた。

私自身も何かに感動すると不思議と回りの光景を覚えていることがあって、この方の感動が実感として伝わってきた。

私たちが確固として存在すると思っているものは実は決して確固たるものではなく、それどころかその存在は曖昧であり、さらにはもともと何も存在していない…

仏教を一括りにすることは難しいが、仏教の根本の思想にはそうした存在否定の感性がある。
言い換えると私たちは大いなる錯覚の中で生きているということになるのかもしれない。

(仏教の関する誤解のひとつとしてお釈迦様はあの世や霊魂の存在を否定されたという方があるが、実は霊魂やあの世だけでなく、この世も私達自身も存在していないと言われたのだと思っている)


だがこの感覚は私達の日常とは余りに遠いものである。私達にとって私達自身はもちろん、この世界も、悩みも、嫌いなあの人もまさに確固たる存在である。この乖離をどう埋めればよいのだろうか。

知識として<存在していない>と言うことは容易だが、自分に大きな不幸が起こったときにその不幸は存在していないと言い切れるだろうか。幸福の絶頂にあるときにその幸福は存在しないと言い切れるだろうか

存在していないことを感性として把握するというと不安的で、虚無的で、ニヒルな世界というイメージがあるが、そうではなくて、錯覚から目が覚めて真実の姿が見えたときに自分の想像を遥かに超えた素晴らしい世界に邂逅できるのではないだろうか。

私達はまさにそこを目指すべきなのではないだろうか。

ふとそんなことを考えた。

今日も雨が時折降る。相変わらずウグイスが鳴いている。そんな春の日の妄想である。

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