赤ん坊の必殺技VS親の必殺技

【山寺の子育て日記】


赤ん坊がようやく離乳食を食べるようになった。

毎回、妻がいろんな献立を考えて作るのだが、赤ん坊は2、3口食べて気に入らない味だと、スプーンを両手でパシッとキャッチしてしまう。言葉が話せたら

  『秘技、真剣白刃取り!』

とか言いそうな感じである。なかなか手ごわい必殺技である

言葉は話せないが、時々、ものすごく大きな声で

   「あー、あー、あー、あー」

などと言う。
お腹から良く響く声が出ていて、いわゆる「腹から出る声」である。
身体が小さいことを考えるとかなり大きな声である。
このくらいの声でお経が読めたらなと思ってしまう。

どうかすると

  「…ンま、ンま、ンま、ンま…」

などと言う。

「ンま」なら「ママ」まで至近距離ではないか。「ままン」ならフランス語っぽい…

残念ながら子供が「パパ」と呼ぶより「ママ」と呼ぶ日が近い気がする。
子育ての99パーセントは妻がやってくれているから先に「ママ」と呼んでもらっていいが、
やはりちょっと悔しい。

時々、まどろんでいる子供の耳元で

  「…パパ、パパ、パパ、パパ…」

とささやいてみる。

私が子供の頃に寝ながらいろんなことを覚えられる<睡眠学習機>というのが流行った。半覚醒状態だと脳に入りやすいというのがこの機械のシステムだったこと思い出したのである。本当は「パパ」「ママ」ではなく「お父さん」「お母さん」と呼ばせたいのだが、いきなりは難しいので大目にみることにしている。



長い長い子育ての入り口に立っているだけなのに、子育てというのは本当に大変だなあと思うときがある。

当たり前だが子育てにはこれがベストという答えが無い。

もしかしたら、というよりかなりの確率で間違えた選択をしてしまうことは間違いない。
いろんな人と話していると親との関係がうまくいかなくて、心にいろんな葛藤や傷や
抱えている人が多い。

もしかしたら間違うかもしれないと思っても、それが子供のためを思ってのことであればいつか、きっと子供に正しく伝わるのではないかと思うことにしている。

自分が子供の頃のことを考えると、ああして欲しかったとか、これはやってほしくなかったということが随分ある。
だが、それもまだ若かった両親が悩みながら、一生懸命考えて選択した答えならそれも仕方なかったなと思う。

子供のことさえ考えていれば、仮に間違いを犯しても、子供への情熱や愛情やエネルギーのようなものが最後は子供に正しく伝わって、子供の人生を正しい方向に導いてくれる…これが親の必殺技ではないかと思う。

だが「いい大学に入って出世することが子供の為である」と考える親はゴマンといるが、そんな親の情熱は果たして正しく伝わるのだろうか…これはかなり難しい。

私は子供が自分らしく生きて、自分自身で納得できるなら学歴もお金も必要ないと思っている。
だがそれは極論であって、自分の心のままに世間の中で生きていくというのはかなり難しい。

娘が小学生になって「ジャニーズが好き」と言わずに、「ジャズが好き」とか「落語が好き」とか「モンゴルのホーミーが好き」と言えばたぶん「変わった子供」といわれるだろう。

日本というのはどんどん狭量になりつつある。

そのなかで自分の“素”の部分で生きていくことはとてもとても難しい。
“素”を出さない人生は意味がないが、日本の社会の中で“素”だけで生きていこうとすれば叩かれる。

私は子供の頃からずっと「変わり者」といわれ続けた。そのレッテルが重荷であり、またものすごく大げさに言えば自分のプライドでもあった。

長い長い浪人時代を経て大学に入ると、自分と同じような変わった人間が周りに一杯いて、ようやく「変わり者」というレッテルから開放された。
自分の“素”というものを自然に出して、相手と付き合っていくことができるようになった。多分、その時が私の人生の新しい始まりだったような気がする。

自分がこれからどんな子育てをしていくのか、そして自分の子供がどんな人生を歩んでいくのか。喜びとも不安ともつかない気持ちが湧いてくることがある、これが多分子育ての醍醐味なのかもしれない。醍醐味とは言っても私の子育てはまだまだ離乳食のレベルではあるが。

ブログランキ
ング・にほんブログ村へ
にほんブログ村←子育てに奮闘中の副住職に応援のクリックをポチッとおねがいします(^人^)