春、うららかに
今日は「麗(うら)らか」という言葉がぴったりの一日だった。
桜、木蓮、スイセン、菜の花、タンポポ、などなど道端にいろんな花が咲いている。
山道に入るとミツバツツジも咲いていた。
この時期、畑に植えられたままの大根や畑の隅に捨てられた蕪にまで黄色い立派な花が咲いている。(余談だが「現代農業」を読んでいたらトウのたった大根の花を摘むと大根にスが入らないと書いてあったので今度試してみようと思っている)
午前中に法事が一件あった。
法事では真言宗用の在家勤行の教本を一緒に読経することが多い。
今日の法事では20人ほどの親族に混じって小学校低学年の子供たち4人が一緒にお経を読んでくれた。
前回の法事の時4人が一生懸命お経を読んでいたので子供用に大きな文字で書いた般若心経の本をあげたら、今回は4人ともすらすらと般若心経を上げていた。聞けば毎日のように4人でお経を上げているという。ちょっと感心した。
子供達のあげる般若心経は透明感があって、丁寧で、とても素直な感じがした。
家でのお勤めの後、お墓参りをするのが通例である。お墓にお参りするときに子供たちがひとつの水桶を二人で抱えて先頭歩いていった。
久しぶりの好天で田舎道を歩くのが気持ちが良かった。
農業を論じる時に多面的機能ということが言われることがある。
農作物を生産することを通じてで景観が守られたり、水源の涵養や、生態系の保全などが同時に達成されることを指す。
宗教にもそういった多面的機能があるのではないかと思うことがある。
法事の席でよく聞かれる言葉に
「法事くらいでしか合わないね」
というのがある。
仏事は人間関係のつなぎとめる上で大きな役割を果たしているのではないだろうか。
今時だとそもそもそういった人間関係自体が面倒くさいという人達も多いだろう。
何をしても自分の勝手、他人に干渉されたくないという生き方を決して全否定はしないが、そうした生き方のなかで自分がとても大勢の人や沢山の物に生かされてきたという感性が失われるのは残念だし、危険なことだと思う。
「人間を動かす2つの梃子は恐怖と利益である」ナポレオン・ボナパルト
実は人が宗教を求める動機もこの2つから出ていることが多い。
「水子のたたりが怖いから供養します」
「商売繁盛を願ってお参りします」
これなど正に「恐怖と利益」の典型ではないだろうか。
この2つを超えたところから出発する宗教とは何だろうか、あるいはそのためには何が必要なのだろうかと時々考える。
子供たちの唱えていた般若心経の声を思い出しながらそんなことを考えた。
いよいよ春が盛りに向かいつつある。
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