中山寺御開帳法要

舞鶴ご近所日記】

本日は若狭観音霊中山寺の33年ぶりの御開帳ならびに本堂の落慶法要が行われた。

中山寺HP】http://nakayamadera.jp/
【御開帳関連記事】
http://www.fukuishimbun.co.jp/modules/news0/index.php?page=article&storyid=21587&storytopic=5


心配していた本堂での法要もなんとか無事終了。一週間近く今回の法要のことで頭が一杯だったので終わったらがっくり力が抜けた…

私の座坪(座る場所)からは柱で視界が遮られて御開帳されたご本尊が見られなかった。近いうちにもう一度お参りしたいと思っている。

法要の後で宴席があり、いろんな来賓が祝辞を述べた。

ある方曰く「全国には三十数体の馬頭観音像が現存しており、当地はそのうち12体が残っている珍しい地域である…」

国内の馬頭観音像が密集しているのがこの地域なのでこの指摘は正しいのだが、その後で「最も素晴らしいのが当山の馬頭観音様である…」

本日出仕されたご寺院の中には○尾寺とか○居寺とか、馬頭観音をご本尊とするところもあるのでそれは言いすぎですね…と心のの中で軽いツッコミ。尤もお祝いの席なので誰も文句は言わないだろうが。実際、この中山寺馬頭観音様は慶派の手によるもので写真で見ても大変に素晴らしい。

法要直前になって今回行われる理趣三昧法要を記録したDVDがあることが分かって、慌てて取り寄せた。届いたのが法要の3日前である。あいかわらずドタバタである…

本山に居たころは難しい法要を一通り経験していて毎日のお勤めでも高度な内容を行っていたが、地元に帰ると、いろんな理由からどうしても簡略化した法要や勤行になってしまう。


僧侶を要請するシステムというのは一時期集中して非常に高度なことを教育するが、そのカリキュラムを終えると、僧侶が一般社会の中に交わるなかでそれまで経験したものが経年劣化してしまうことが大きな弱点ではないかという気がする。


檀家制度というのはきちんと機能すれば僧侶が自己研鑽しつつ、その成果を一般社会に還元できる制度になるはずである。それがいろんな理由からうまく機能しなくなりつつある。それが今日の仏教批判の原点にあるという気がする。


中山寺の法要ご終わった後、仏教会の用事があったので地元の禅寺に出かけた。
ご住職は私と同年代だが、独身で、とてもまじめに仏教を研鑽されている。

書斎に入ると仏教をはじめ、キリスト教老荘思想、西洋哲学の書籍が沢山ある。この方は読んだ本はどんどん処分されるということなので実際の読書量はどれくらいか見当がつかない。
帰りに以前から読みたかった白隠禅師の「遠羅手釜」を貸してもらった。

遠羅天釜

遠羅天釜

こうしたまじめなお坊さんというのは世間の眼には触れないことが多い。こういった方の存在を抜きにしてお約束の仏教批判が繰り返されるのは少々残念な気がする。




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