法話は一日にして成らず
昨日、兼務している多禰寺というお寺に西国薬師霊場参りの団体参拝が来られるという連絡があった。
少しは早くから出かけて本堂で待っていると、予定時間ぴったりにバスが到着して、全員白い巡礼装束を揃えた一団が降りてこられた。
先頭に添乗員らしい年配の男性。やたら元気の良い方でテキパキと一団を先導して歩いて来られる。寺務所に着くと手際よく朱印を集められた。
「ハイ!皆さん本堂でお勤めできますよ!良かったですね!ハイ!お線香とロウソクはこちら!お賽銭は大目にッ!ハイ!履物はこちらで脱いで下さい!」
なんか、ものすごくテンションが高い…
私にも
「ご住職様!3分でいいので法話してください!」
と言われる。
「3分」というのは時間が無いのか、遠慮されてなのか図りかねるが承諾した。
本日来られたのは広島の真言宗のお寺の檀信徒の方でご住職もご一緒である。
団体参拝のお勤めというのは「般若心経」一巻が通例なのだが「開経」から始まって長短の経文をあげ、最後には当山のご詠歌まで声を揃えて詠唱して下さった。大変丁寧なお勤めである。
こうした団体参拝の方が時々こられるが、わざわざ当山のご詠歌まで詠唱してくださったのは始めてである。白い巡礼装束の一団が声を揃えて自分のお寺の御詠歌を詠唱される姿を見ていると感激で胸が一杯になった。
一言二言挨拶をしながら、これはおもてなし代わりに何か喜んでもらえるような話しをしないと…と思って、少ないもちネタ?の中からあれこれ考えてこの話をしようと思った瞬間、ガラッと本堂の扉が開いて、添乗員氏が顔を出し
「ハイ!バスが出発しますよ!」
漫画なら両足を上に向けて倒れているところである。
本日は6カ寺の霊場を回るかなりハードなスケジュールでとにかく時間が無いということが分かった。私に与えられた時間は掛け値なしに3分だったのである(笑)
子供の頃から人前で話しをするのは大の苦手である。
この仕事について人前で話をしないといけないことに気がついて愕然とした。
今でもどうかするとしどろもどろになったりするが逃げるわけにはいかない。
足は震えるし、声は震えるし、顔は赤くなるし…
お坊さんになりたての頃は法話などしなくても、一生懸命、心を込めて読経すれば必要十分だと思っていたのだが、どうも自分が伝えたいと思っていることが上手く伝わっていないもどかしさが常にあった。
だが時々、法話の真似事をするようになって、読経ではなく、日常的な言葉で語ることで案外、自分の思いが相手に伝わることに気がついた。同時に読経を真剣にやりさえすればいいというのが一種の<逃げ>だったことにも気がついた。
コメントを下さったkeppeki様のように理路整然と、流麗な法話はできそうに無いが、できることをやっていくしかない。
自分の力不足もあるし、その場その場でいろんなハプニングがあったりするがそれもまたこの仕事の妙味なのかもしれない。
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