禅味と淡味

先日、「宗哲和尚の精進レシピ」という本を買った。
時々、パラ読みしては美味しそうな精進料理の味を想像して楽し
んでいる。
文章にも馥郁たる味わいがある。




道場で修業中だった。
晩秋、長芋を地方の住職が送ってくれた。雲水たちに
トロロがけばかりでは、台所を預るぼくとしては能がない。
「そうだ、コロッケはじゃが芋、なら……」と
長芋の皮をむいて蒸した。
具は、畑の根菜、三つ葉、くるみ、干し湯葉であった。
卵の代わりに長芋。パン粉がないので、米の粗引き粉
であった。
形も市販の倍はあった。
揚げたてをいただく。
これは冷めても平気だが、ほくほくしているとそれはもう全く
違う。
ソースなどかけない。
揚がった後からしょうゆを二、三滴落とすだけだ。
これで充分である。
           「長芋のコロッケ」


こんな文章を読んでいると、自分が無頓着にソースや醤油をか
けた食事をしていることに気がついた。

私は朝食は大抵トースト1枚と紅茶一杯である。
試しにトーストに点けるバターを半分にしてみたら、バターの味
もパンの味もいつもより良く分った気がした。

それ以来、できるだけ(といってもほどほどに)淡味を心がけて
いる。

食材で調味料が添付されているものは8割くらいだけ使ったり。
調味料を半分だけにして後は塩胡椒を補うとか。

これは案外いい方法だと思う。

ただこれを続けていると市販の食品や外食で食べた料理がひどく
塩辛く感じたり、濃すぎると感じるようになって閉口することが
ある。

そうした弊害もあるが長い眼で見れば身体には良い習慣ではない
かと思っている。


淡味の先には少食がある。

だが禅宗の方は存外大食の方が多い。禅宗のご住職は麺好きな方
が多いが
うどんを12玉食べたとか、24玉食べたなどという話も聞く。

だが淡味と大食は決して矛盾しないと思う。

大食にはどうも人間の<器>を大きくすることがあるように思う
のだ。
大食も淡味や少食同様、禅に通じる修行なのかもしれない。もっ
とも大食だからといって必ず<器>が大きくなるわけではないよ
うであるが。


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